琉球藩の時代 その14

手形入れは前述した通り琉球・沖縄の歴史のおける最悪の慣習です。すでにお気づきと思いますが、この慣習は税外負担です。村内に縛り付けられた百姓たちは貢租の義務に加えて重い税外負担にも耐えなければならない過酷な環境にあったのです。

しかも1861年からの文替わり政策によって琉球国内ではハイパーインフレが進行します。王国内の経済が絶賛崩壊中にも関わらず、地頭たちは諸品を定代で買い取る鬼畜の所業*を平然と行います。つまり彼らが命ずる必要物資を超高価で調達してタダ同然で引き渡す無茶がまかり通ったのです。

*地頭たちが命ずる諸品(必要物資)を市場価格で調達して、価値が絶賛下落した鉄銭で支払います。銅貨で支払いすればまだマシですがね。もちろん手形入れを命じれた村内は阿鼻叫喚の地獄状態です。 

この悪慣習は廃藩置県後の旧慣温存の政策においても復活しませんでした。理由は簡単で琉球国内の百姓階級を最も苦しめていた慣習であることを明治政府の為政者たちが理解していたからです。実際に廃藩置県後に明治政府は地頭階級による間切あるいは村からの貢租徴収を厳禁します。そして農村部の負担が大幅に軽減されたために農民たちは明治政府の政策を大歓迎することになります。この件を全く触れないのが現代の沖縄の歴史家*でブログ主には著しく公平さを欠いた態度としか思えません。

*沖縄一千年史(眞境名安興)によると、1728年制定「諸品定代付」及び「諸品有所付」と、1845年制定の「野菜肴有所付、節付並びに代付帳」なるものがあったようである。1728年は蔡温が三司官になった尚敬16年であり、これは公儀即ち王府直属の大台所や大美御殿等の御用のためのものであるが、この最初のものと120年後のものには品目や産地に変わりがあったが、値段まで改訂されたかはわからない。ただ少なくともそれまで1世紀以上も大した変更のなかったことだけは確かである。 

上記は比嘉朝潮著「沖縄の歴史」から抜粋。この記述によれば国王およびその家族のための生活物資も手形入れを行っていたことを示しています(琉球王府時代の国王の直轄領は西原間切)。王家自ら悪慣習に手を染めていたわけで、それゆえ誰にも手が出せない聖域だったのです。 

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