琉球王国が経済的に終了した日

前回、当ブログに於いて文替(もんがわり)について言及しました(琉球・沖縄の歴史上最悪の布令)。この政策は琉球社会にハイパーインフレを巻き起こし、その結果経済は壊滅の憂き目を見ます。だがしかし琉球王国の恐ろしいところは、王府自身も全身全霊を挙げて経済破滅に尽力したことです。

嘘だと思う読者は、『尚泰候実録』から該当する部分を抜粋しましたので、是非ご参照ください(旧漢字はブログ主にて訂正済み)。

〇 慶応元年(1855年)乙丑(尚泰)候23歳(162㌻)

2月2日、銅銭1文を以て鉄銭4文に抵用す。6月28日、銅銭1文を以て鉄銭6文に抵用す。是年秋鄭康衡等を清国に遣はして冊封使を迎えしめたり

文久元年にスタートした文替は、慶応元年には銅銭1文につき鉄銭4文、しかも短期間で銅銭1文につき鉄銭6文という無茶苦茶なことになります。人為的にハイパーインフレを引き起こして物価を事実上6倍に値上げする鬼畜所業ですが、この折になんと王府は清国に冊封を要請しています。

〇 慶応2年(1856年)丙寅(尚泰)候24歳(163~164㌻)

6月21日、清国冊封使渡来す。正は翰林院検討趙新、副は翰林院編修于光甲なり。月の初め9日福州を発し、21日那覇に着く。7月20日先考尚育王を論祭し、8月27日候を冊封す。乃ち9月15日、宗廟を拝して告祭したり。

(中略)11月4日使臣等任を治めて帰るにより、馬朝棟、阮宣、向承儀等をして送らしめたり。

琉球側の要請により慶応2年(1866年)6月21日、冊封使が来琉します。一行は11月4日の4カ月余り滞在しますが、ハイパーインフレの最中に巨額の費用を要するスーパーイベントを開催するとどうなるか。説明不要とは思いますがこのイベント開催によって琉球王府は財力を根こそぎ使い果たし、その結果経済の自力更生は不可能の大惨事を引き起こします。はっきり言うと経済感覚欠如の為政者が国を治めることの恐ろしさここに極まれりです。

下記は冊封の文ですが、ブログ主には「琉球王国に対する死亡宣告書」にしか見えません。

朕惟典隆圭組千秋垂帶礪之盟瑞集共球百世屹屏藩之衛紹箕裘而勿替德克承賁綸綍以崇褒新恩宜沛爾琉球國拓疆東海凜朔中朝慶土宇之久安荷輧幪之廣胃中山王世子尚泰夙騫令譽善繼先型處述職於重溟早濾忱於九陸波恬碧澥頻輪琛●以效珍星拱紫垣遠渉梯航而請命茲以序當嗣罸表●錫封特遣正史右春坊右賛善趙新副使内閣中書舎人于光甲齎詔徑封爾爲琉球國中山王爾國臣民以曁士庶其咸輔乃王益樿忠悃懋著豐規緜世澤以孔長鞏邦基於丕固思裕後光前之匪易勉啓乃心念宜猷賛化之宜勤無忘汝翼鴻麻滋至繼繩延茅壤之榮龍節載頒申錫楓廷之賜故茲誥示咸使聞知勅曰惟爾毓秀海邦蜚英国冑譽隆肯構早駿望之丕昭德著維城果象賢之無忝以承●衍慶纘業揚庥踰鼇島以来王航鯤溟而命使瞻雲願切夙勤修貢於東瀛捧曰心長彌冀近光北闕嘉前徽之克紹久靜鯨波念崇爵之宜頒載宣鳳綍特遣正使右春坊右賛善趙新副使内閣中書舎人于光甲勅封爾爲琉球國中山王並賜爾妃文幤等物爾祇膺簡命益勵葵忱式宏翼載之勳大啓熾昌之緒祚茅土環紫澥之承流榮被芝泥翊丹宸而布化萬里效星辰之拱用揚鴻烈於方來九天錫雨露之恩允荷龍光於靡極欽哉特論

琉球王国は政治的に見ると明治5年(1872年)に琉球藩となり、明治12年(1879年)には廃藩置県の措置により滅亡します。ただし経済的にみると慶応2年(1866年)の冊封により終了したと見做しても過言ではありません。この歴史的事実から導き出される教訓として、

経済及び経営センスが皆無の為政者に政治を任せてはいけない

ことになりましょうか。是に由りて之を観(み)れば琉球王国はどうあがいても滅亡の運命を免れることができなかったことと、この不良債権を引き取った日本人のお人よしさには頭が下がる思いを感じつつ今回の記事を終えます。