すこしさぼり気味だった琉球藩の記事を再開します。前回までハイパーインフレの経済環境で巨額の費用を要する冊封イベントを行ったクズエピソードを掲載しましたが、今回はおそらく琉球・沖縄の歴史家が最も語りたくない(とブログ主は思う)上級士族のクズエピソードを掲載します。
~クズエピソードその2 手形入れと諸品定代~
琉球王国時代の行政区分について簡単に説明すると(沖縄本島のみで離島は除く)、間切(現代の市町村に相当)が43区分、村(行政の最小単位で現代の字に相当)が487区分です。そして国王より間切を拝領された上級士族のことを地頭(按司地頭、惣地頭)と呼び、村を領有する上級士族のことを脇地頭と呼びます。
貢租の義務を負うのは百姓階級のみで、その仕組みは
1.王府への上納
2.薩摩への貢租
3.地頭、おえか人(地方役人)への上納
の3種類ありました。税率は全島統一ではなくて間切でそれぞれ違っていたため、そのことが琉球王国の衰退の一因になったのですが、それとは別に百姓階級をもっとも苦しめた慣習がありました。地頭階級は領有する間切(あるいは村)に命じて生活に必要な物資(諸品)を調達を命じて、あらかじめ定められた価格で買い取る特権がありました。この物資調達のことを手形入れと呼び、あらかじめ定められた買い取り価格のことを定代(じょうだい)と呼びます。
この制度の欠点は、あらかじめ定められた買い取り価格が不当なまでに安すぎることにあります。定代が制定されたのが何時なのかはハッキリしていませんが、羽地朝秀(1615~1675)の摂政時代(1666~1673)には農村疲れの原因として問題視されています。つまり百姓は市場価格で諸品(地頭が命じる必要物資)を調達して廉価で地頭に販売することを強要されていたのです(続く)。