現在ブログ主は「日共の対琉要綱」に関連する史料をチェックして記事を掲載していますが、これまで蒐集した “不屈さんフォルダー” のデータを再確認したところ、これまで(公式では)語られることのなかった逸話?が多数ありましたので、今回は軽い気持ちで彼のエピソードで打線を組んでみました。
個人的には人間らしいエピソードと思いますが、信じる信じないは読者の皆様にお任せします。では早速ですがご参照ください。
1番(遊撃手)大正13年(1924)沖縄二中時代の不屈さん、ついうっかり男の子を作ってしまう。そのせいか当時のあだ名は “スーグヮー(親父)” であった。ちなみにこの時生れた男の子は去年(平成29年)94歳で亡くなった。
2番(二塁手)昭和28年(1953)ごろ入党した国場幸太郎さん(国場組の社長さんとは別人)について、不屈さん及び奥さんのフミさん存命時はガチのタブー扱い。彼は昭和34年(1959)に人民党から追放される(詳細は未だ不明)。親族から彼の名前が公表されたのは幸太郎さんが亡くなった後(2008年)以降で、それまでは「Kという活動家」として扱われていた。
3番(捕手)昭和15年(1940)10月に大政翼賛会が成立。不屈さんは翼賛壮年団の島尻郡総務の一人として活動していたことは有名。翼賛会事務局長は当間重剛氏(のちの琉球政府主席)で、彼の周囲に若いインテリが集まりよく飲み会を開催したが、この集まりに不屈さんはよく参加していたという。
4番(DH)不屈さんの回想録や人民党の記録には “又吉康和” という単語がひとつもでてこない。沖縄議会の議員選出、うるま新報社長就任(昭和21年10月)、および沖縄人民党結成(昭和22年7月)に陰から尽力した恩人に対して(公式では)一言も感謝の意を述べたことがない。
5番(一塁手)昭和28年(1953)9月に又吉康和さんは亡くなるも、不屈さんが葬儀に参加した形跡がない。
6番(三塁手)終戦後の捕虜収容所時代に不屈さんは十字架を首から下げていた姿が目撃されている。ちなみに当時は米兵による暴行・射殺事件が多発していたが、「私はクリスチャンです」と十字架を示せば米兵は見逃してくれたらしい(『祖国なき沖縄』沖縄県学生会より)
7番(右翼手)人民党事件(昭和29年10月)で逮捕された不屈さん、裁判において(実行犯の)畠義基氏から「彼の指示で潜伏しました」と証言されて窮地に陥る。結果懲役2年の判決を食らうも、この時の屈辱は一生忘れられなかった模様。後に畠氏の地元である名瀬市に娘の瞳さんを差し向けて「奴は裏切者」と演説させる。(ちなみにこの仕打ちに対して畠さんぶち切れて『真相はこうだ』を発刊、人民党事件の内幕を暴露する)。
8番(中堅手)昭和15年(1940)ごろの不屈さんは大阪毎日新聞那覇支局に勤務していたが、昭和17年(1942年)産業組合連合会長(後の農連)の平良辰雄氏に引き抜かれる。平良さんは不屈さんのことをたいそう気に入って課長クラスに抜擢、ただし戦後不屈さんは恩人の平良さんを裏切って又吉康和さん(沖縄民政府副知事)に接近し農連再建の邪魔をする。
9番(左翼手)昭和28年(1953)泊港周辺の違法屋台撤去問題でかつての恩人であった又吉康和那覇市長と不屈さんがガチ対立する。その結果、沖縄民政府時代の2人の関係を知るひとたちから不屈さんは顰蹙の目でみられるようになる。ちなみにこの屋台撤去問題は、スヤーサブローこと宮城嗣吉さんが仲裁にはいり不屈さんが譲歩することで解決するが、宮城さんのような “真の強者” に対しては不屈の精神は発揮できなかった模様。
先発:沖縄人民党は沖縄民政府お抱えの御用政党として結成されたことは公然の秘密であった。不屈さんは(当時の)特権階級しか運転できないジープを利用して、党勢拡張に沖縄中を飛び回る日々を過ごす。
中継ぎ:昭和25年(1950)9月の沖縄群島知事選挙で、応援弁士を務めた上地栄氏は「カメさんの背中にのって祖国の岸へ渡りましょう」との有名なセリフを残すが、彼は昭和27年(1952)人民党から除名、追放される。
中継ぎ:雑誌「人民文化」の昭和25年(1950」)7月号に「復興費の行方」という論文を書いて、松岡政保(沖縄民政府工務交通部長)さんを激怒させる。ちなみに米軍政府が沖縄民政府工務交通部を調査したら復興費の経理は問題ないことがわかり、「人民文化」は同年9月12日付けで発刊停止処分を食らう。なお「人民文化」の編集長であった仲里誠吉氏は、2年後の昭和27年(1952)に人民党から追放される。
中継ぎ:立法院議員時代に(立法院に)提出した履歴書と那覇市長時代に(市役所に)提出した履歴書が仲宗根源和氏によって公開されたが、生年月日や人民党書記長になった年月、およびうるま新報社長就任年がそれぞれ異なっている。つまり立派な経歴詐称の履歴書を公的機関に提出していたことになる。
セットアッパー:終戦後に、沖縄民政府傘下の沖縄議会(昭和21年~24年3月)の議員に選出されたのはガチ黒歴史。理由は志喜屋・又吉さんの御用議員として活動していたから。当時不屈さんと又吉康和副知事との関係がとかく噂された模様。
クローザー:昭和32年(1957)の那覇市長時代、不屈さんは当時琉球政府主席だった当間重剛氏に対して米国民政府からの補助を再開するよう斡旋依頼したことがある。そのとき当間主席が「私が那覇市長時代に軍補助金で泊港を浚渫したときキミたちは “あれはアクセサリーだ” と言っただろう。いまさら軍に対して補助金云々を言える資格があるのか。当時の議事録を見ろ。」と一喝されてすごすごと引き下がる。