前節で大日本帝国時代に行った改革がアメリカ軍の占領行政の時代になってようやく効力を発揮したと記載しました。これは日本本土と同一の制度を施行したことによる結果、近代法とは何かを沖縄県人が理解していた故にアメリカ軍の復興政策が大成功を収めたことを意味します。
特に重要なのは所有と契約の概念で、廃藩置県後の琉球人は上級士族も含めて所有や契約の概念がまったく理解できませんでした。土地整理事業(1899~1903)の際に当時の農民たちに土地の所有とは何かを理解させるために沖縄県庁および明治政府側は、各間切に出張所を設けて係員を派遣し、農民たちに土地所有の意義を一から説明して改革を断行します。
1906年には土地を担保に低金利の長期融資が可能になるよう法改正を行います。その後農民たちが長期融資を受けて農業経営を行うようになりますが、この施策によって沖縄県人に近代的な契約の概念が徐々に浸透していきます。現代の信用経済(資本主義)における基礎的な概念がこの時に初めて導入されたことは特筆すべきなのですが、現代の沖縄県の歴史家はこの件は見向きもしません。
近代法の精神、特に所有と契約の概念を浸透させたことがアメリカ軍の占領行政時代における戦後復興の決め手になります。1951年(昭和26)に住宅建設の支援のために琉球銀行が低金利の長期融資を開始しますが、この政策が予想の斜め上をいく大成功を収めます。なぜ大成功したかといえば、当時の沖縄の人たちが所有や契約の概念を理解していたために借りた金を融資期限内にキッチリ返済したからです*。
*1900年代に沖縄県でも沖縄銀行をはじめ民間の金融機関の設立ラッシュが相次ぎます。ただし実際は不正な融資のオンパレードで沖縄農工銀行(後の第一勧銀)以外の銀行は経営難に陥り、1920年代に入ると銀行の倒産ラッシュが相次いで沖縄の経済を破滅の一歩手前にまで追い詰めます。大正時代の民間銀行の倒産劇は後日記事にする予定です。この時に不正融資が相次いだのは当時の沖縄県人に近代的な法概念がまだ浸透していなかったことが原因です。
これには琉球銀行を経由して資金を提供するアメリカ軍も大喜びで、かつ大量の資金が沖縄社会に供給されたことで沖縄経済は空前の活況を呈します。その結果1960年代には戦後復興はおろか大日本帝国時代の経済を超えて琉球・沖縄の歴史上最も豊かな時代が訪れます。
廃藩置県の直後の琉球人と、1945年(昭和20)の沖縄戦後の沖縄県人とは意識の上でものすごい違いがあります。仮に廃藩置県直後に大量の資金を供給しても琉球の経済は全く活性化しなかったでしょう。当時の法整備や土地制度が経済発展の妨げになるだけでなく、近代法の精神に欠ける住民たちの存在が近代化および経済発展の大きな妨げになってしまうのです。明治政府がこの点を理解していたとは考えにくいのですが、廃藩置県後の沖縄県の改革を教育制度→土地制度→自治制度の順で辛抱強く行ったのは極めて正しい政策と言わざるを得ません(続く)。