前節まで廃藩置県直後の旧慣温存政策について長々と記述しました。本題である「廃藩置県がなぜ現代の歴史家に過小評価されている3つの理由」に戻りますが、1つ目の理由は琉球藩の時代その2で述べた通り当時の琉球人が日本本土と同一の制度を施行することを望まなかったからです。前ふりが長い気がしますが、琉球藩の時代はこの話題を終えてからにします。
~廃藩置県が現代の歴史家に過小評価されている3つの理由 その2~
2つ目の理由は明治政府が行った諸制度の改革に即効性がなかったことです。当時の改革は大まかにいうと学制の改革→地方自治の改革→土地制度の改革を経て1920年(大正9)に一般県制を施行することで完成します。廃藩置県から数えて41年を経て名実ともに大日本帝国の一員になったと考えてください。
廃藩置県後の明治政府の沖縄に対する政策は一環していてその趣旨は日本本土と同一の制度を適用することです。41年の長き時間をかけて当初の目的を達成しますが、では肝心の庶民の生活は良くなったかというと、これが疑問符をつけざるを得ないのです。理由は1920年以降の世界経済の激動に日本経由で沖縄県の政治・経済が巻き込まれてしまったからです。
大日本帝国の一員になれたということは、言い換えると日本経由で世界経済にリンクされることを意味します。その結果欧州大戦(第一次世界大戦)以降の世界の政治・経済の激動にダイレクトに巻き込まれてしまい、経済基盤がぜい弱な沖縄県は大ダメージを受けます。
薩摩藩の時代はそのようなことはありませんでした。当時の日本が海禁政策を採用していたため、日本経由で世界経済の激動に巻き込まれることはありません。例外は1853年(嘉永6)以降の幕末です。ただし1920年(大正9)以降は大戦後不況、関東大震災、昭和恐慌、そして世界恐慌など怒涛の政治経済の激変に沖縄の経済も否応なく巻き込まれます。その結果当時の沖縄県の経済はどん底を味わってしまい県人は塗炭の苦しみを味わう羽目になったのです。
とどめは1945年(昭和20)の沖縄戦でしょう。当時の沖縄県人のおおよそ2割近くが亡くなった歴史上最悪の大災害ですので大日本帝国後の時代を否定的に捉えたい心境はやむを得ないです。ただし大日本帝国時代に行った政治・社会制度の改革は、アメリカ軍の占領行政時代になってようやく効果を発揮するのです。沖縄本島を廃墟にして、その後勝者として君臨したアメリカ軍による占領行政の時代になってようやく効果が出たのは歴史の皮肉としか言いようがありません(続く)。