琉球藩の時代 その4

前回の記事で琉球王国(あるいは琉球藩)の時代の旧慣(作付制限、土地制度)について説明しました。今回は税制と法律(内法)について述べます。

3.税制:琉球国の税制は尚真王の時代(在位1477~1527)に確立します。その詳細の説明は省きますが、1609年(慶長14)の薩摩入り後に一部税制が改正されます。納税単位を個人から村に変更したのです

税制の変更は前述した地割の制度の本格運用と密接に関連していますが、ただし税率に関しては各間切の間で不均等な状態を改正することはありませんでした。薩摩に収める貢租に関しては統一ルールがありましたが、琉球王府および間切や村を所有する地頭あるいは地方役人に対する課税は各地方によってバラバラで、そのため税率に著しい不均等が生じてしまったのです

実はこの点が琉球国の産業経済の停滞の一因になっていたのですが、廃藩置県にいたるまで琉球王府側で改正することはありませんでした。

廃藩置県後は明治政府側に収める貢租が2割減になったことと、地頭などの上級士族に対する農村からの貢租徴収を廃止したことで、農民の負担は激減します。ただし地方によって課税の不均等が経済発展の妨げになることは明らかでしたので、1903年(明治36)の土地整理事業の完成を以て税制を金納に統一して、課税の不均等を解消することに成功します。

4.間切内法:琉球国の地方自治(農村部)は間切(まぎり:現代の市町村に相当)、(地方自治における最小単位で現代の沖縄県で例えると字になります)に区分けされていました。間切内法は文字通り各間切が独自に運用していた慣習法です。

前述した地割制度の運用に伴って、農村部は間切あるいは村において急速に共同体化が進みます。その結果村内の共同体を維持するための慣習法が整備され、強固な地域ルールとして存在することになります。内法は極めて強力な拘束力を持ち、大正時代になっても地域共同体の運用ルールとして適用されていましたが、大日本帝国憲法をはじめとする六法に抵触するルールがあってそのことが大きな社会問題を引き起こします。

ただし1903年(明治36)の土地制度の改革と1908年の県会(県議会)の設置および特別町村制の施行によって地域共同体の解体および地域住民からの内法の運用廃止の動きが見受けられるようになったため、1920年(大正9)に沖縄県が他府県と同一の政治制度が施行された頃には内法は消滅します。現代ではよほどの歴史マニアでもない限りその存在すら知る人もいないでしょう(続く)。

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