唐突ですが、今回は沖縄ヤクザ関連のネタを適当に並べてみました。実は琉球王国および戦前の沖縄には現代のようなヤクザ組織はありませんでした。沖縄戦後、アメリカ世になって初めてアンダーグラウンドの世界を仕切る反社会的な集団が誕生します。この点は琉球・沖縄の歴史を語る上で重要なので、ブログ主は不定期ですが当時の新聞などを確認して情報を収集しています。大雑把にいって昭和27(1952)年から昭和42(1967)年ごろまでのエピソードを思いつくまでに並べてみました。是非ご参照ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。
・戦前の沖縄社会には(現代的な)ヤクザの組織はなかった。(スヤーサブローこと宮城嗣吉(みやぎ・しきち)さんがそういっているから間違いないと思われ。)
・戦後の那覇の暴力団の芽生えは、昭和26(1951)年ごろ。当時の盛り場、神里原を中心に、パンパン街崇元寺を又にかけて、軍作業員上がりの大島の腕自慢が4つのグループに分かれて群雄割拠した時に始まった(らしい)。
※昭和26年に『沖縄ヘラルド新聞』が「暴力団」の特集記事を掲載したが、残念ながら現存していない。
・昭和27(1952)年ごろから、那覇派とコザ派が勃興。当時は “アシバー” たちが集まって “シンカ” を作った集団。那覇派の首領は又吉世喜(またよし・せいき)、コザ派の首領が喜舎場朝信(きしゃば・ちょうしん)。
※又吉世喜の存在が一般に知られるようになったのは、昭和32~33年ごろからと推定。
・那覇派は用心棒上がりのグループで、トップの又吉は空手の達人(宮里栄一門下生)。コザ派は戦果アギャーからの転進。
・那覇派と親交があった弁護士さん曰く「又吉は那覇派の親分といわれているが、彼には組織の統制がとるだけの能力があるかあやしいもんだ。それほど、彼には気弱なところがある。」
・又吉世喜の通称 “スター” は彼のあだ名 “シター” がなまったもの。『月間沖縄』には彼のことを平社員から一気に社長に就任したようだとの記載あり。ただし彼は呼び名通り夜の街の “スター” になる。
・昭和36(1961)年、十貫瀬(じっかんじ)の飲み屋(実態は売春街)の利権をめぐって、コザ派と那覇派が対立する。那覇派は夜の女たちから保護費として月2ドルを徴収していた。(『沖縄警察50年の流れ』 比嘉清哲著によると那覇派は十貫瀬の飲み屋から月100㌦徴収していたと記載あり。)
・昭和36(1961)年9月9日、又吉世喜はコザ派(当時)の新城喜史(しんじょう・よしふみ)に呼び出され、西原飛行場で滅多打ちのリンチにあってしまう。この事件をスクープした『月間沖縄』(昭和36月11月号)にたいし、又吉は翌年2月名誉毀損で月間沖縄社を告訴する。
・スター(又吉世喜)は毎日マーガリン(バター)を5つ、タマゴ8つ、固いご飯は全然とらずおかゆばかり食して、昼寝は毎日3時間深酒もせず夜ふかしもさけて体力を練ったという。(昭和36年 – 月間沖縄11月号より)
・昭和37(1962)年2月ごろからにコザ派、那覇派の告訴合戦が勃発。その時の那覇派の弁護士は中村晄兆(なかむら・てるあき)さん。ちなみに彼は同年11月11日の第6回立法院選挙に(第3区から)立候補して当選。
※中村晄兆については以下リンク参照。
・昭和昭和37(1962)年コザ派の一人が那覇派に走った(『月間沖縄』 昭和38年3月号)とあるが、おそらくその人物は栄町を拠点にしていた多和田真山(たわた・しんざん)のことと思われる。
※那覇派に走った人物は、多和田真山ではなく、玉城藤吉という人物だった可能性大。
・昭和昭和37(1962)年11月13日午前11時ごろ、又吉世喜が那覇市壺屋の自宅前で狙撃される事件が発生。この事件をきっかけに琉球警察が本気を出して那覇派、コザ派を一斉捜索。(米民政府から厳命された。)ちなみに警察が暴力団事務所を捜索すると、必ずといっていいほどカービン銃が押収される。
・その際にコザ派のトップである喜舎場朝信が捕まったが、翌年2月13日にコザ市照屋公民館で “喜舎場朝信を救う会” が開催された。ちなみに彼は当時としては破格の2万5千ドルを支払って保釈された。
・その救う会に参加したコザ市会議員さん曰く「彼は竹を割ったような性格で、正を好み、邪を憎むというモラルの持ち主だ」。なお彼の資金源のひとつが照屋黒人街(本町通り)の売春宿のあがりであることを追記しておく。
※喜舎場の収入については、確たる史料はなし。ただし彼が住んでいた照屋で事業を営むため、彼に話を通すのが “慣例” であったことは間違いない。
・昭和41(1966)年4月23日、稼業を引退していた喜舎場朝信が北中城のアメリカンスクール前で銃撃される。『沖縄警察50年の流れ』 比嘉清哲著によると、狙撃犯が引き金を引いたが弾は出ずに、喜舎場は普天間署に逃げ込んで九死に一生を得る。(『沖縄、だれも書かれたくなかった戦後史〈上〉』 佐野眞一著にはアメリカンスクールに逃げ込んだとの記述あり。)
・ちなみに又吉世喜は昭和50年(1975)年射殺、喜舎場朝信は天寿を全うして昭和52(1977)年に亡くなるが、又吉の葬儀の際の友人代表がスヤーサブローこと宮城嗣吉さん。
※喜舎場が亡くなった年について、令和05年1月時点でもお悔やみ広告などの新聞史料が見当たらない。
・第三次暴力団抗争(那覇派+山原派vs普天間派)の抗争(昭和41年10月~42年10月25日)における内容は下記参照。(『沖縄、だれも書かれたくなかった戦後史〈上〉』 佐野眞一著からの抜粋)
この抗争は昭和42年10月までの約1年間にわたり、連日昼夜の別なく、拳銃、手榴弾、日本刀を所持して80数件の殴りこみ等の事件が敢行された。(中略)使用された武器は主として拳銃と手榴弾であった。
・当時の宜野湾市では「暴力団追放市民大会」が連日のように絶賛開催されていた。
※この記述は不正確なので、横線消去しますが、行政を巻き込んだ「暴力団排除市民大会」が開催されたのは、昭和51年12月、那覇市安謝が初めて。
・昭和42年10月19日、普天間派のトップ、田場盛孝(たば・せいこう)は自宅で那覇派組員3人に襲撃され射殺される。実行犯曰く「射殺する予定ではなかった。たがしかし襲撃しても警察官がやってこない(普天間署は田場の自宅近くにあった)。そのうちに弾みで射殺してしまった。」
※横線消去の記述も引用が不正確。この事件は昭和42(1967)5月、普天間で起こった小禄卓(普天間派)射殺事件で逮捕された人物の証言。
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