先日ブログ主は川瀬俊治著 『琉球独立は可能か』 を購入しました。金城実さんと松島泰勝氏の対談形式で果たして琉球独立が可能かどうかについて考察した著作です。この著書は全八章からなり、実はまだ第八章 (琉球連邦共和国を目指す)は読んでいませんが、面白いことを発見したので先に記事にします。
ブログ主はこれまで松島さんの著作を2作読んだことがあります。以前当ブログにおいても琉球独立が非現実であることについて記事にしましたが、その際は “独立したらやっていけるのか” という独立後をテーマにしました。だがしかし今回3冊目の著作で、琉球独立における前提条件が何かおかしいことに初めて気がつきました。
琉球独立論の前提は、大雑把に言うと
- 琉球諸島には琉球民族が存在して、独立国を経営していた。
- だがしかし、1879年に明治政府によって琉球処分が断行され、日本の植民地になってしまった。
- 現在においてもその状況は変わらず、琉球人は差別されている。
- だから独立して初めて琉球民族は差別から解放され、自立を取り戻す。
になりましょうか。注目は、独立論は歴史において琉球民族が存在したことを前提に理論を組み立てていることです。ブログ主が独立論に抱いた最大の違和感がこの点であり、そして果たして歴史上琉球民族は存在していたのかの観点から考察すると実は琉球独立論は成り立たなくなるのです。
琉球民族は歴史学における一種の “仮説” であって、実在したかどうかは別の問題です。実際に民族の興亡の観点から琉球・沖縄の歴史を叙述することは可能でしょうし、学問としては意義あると思います。ただし仮説に過ぎない琉球民族を実際に存在していたとの前提で独立論を形成すると、どうしても無理が生じます。
つまり仮説と事実を混同しているのです。
民族の定義はさまざまですが、”帰属意識” や “連帯感” が必要なことは云うまでもありません。ただし第一でも第二尚氏の時代でもかまわないのですが、当時の琉球諸島の住民たちにそんな意識はあったのでしょうか。そんなこと誰にも分かりません。たとえば第二尚氏時代の首里の文化に国頭間切の住民はあこがれたのか、あるいは宮古・八重山の住民たちに尚家に対する帰属意識があったのか、証明することはできません。血縁および村落共同体に対する帰属意識はあったとしても、現代のような緩やかな連帯感、つまり
われわれは~人である
という意識があったのか正直なところ極めて疑問に思わざるを得ません。
だから、琉球独立論においては真っ先に行うべきは万人が納得する “琉球民族の定義” を明示し、その上で理論を構成することです。この点をクリアできない限り何時までも机上の論理”\扱いになること間違いありません。そしてこの程度の理論なら実際には大したことない、危険視することは時間と精神の無駄であることをブログ主は確信した次第であります(終わり)。
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