俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう 最後に

これまで計4回、普天間第二小学校の歴史について調子に乗って説明しました。ここで一つ訂正がありますので、この場を借りて掲載します。

『俺が調子に乗って普天間第二小学校の歴史を語ってみよう – その1』の記事において、「ちなみに学校の移設が検討されるきっかけになったのが、昭和57年(1982)8月19日の訓練中のヘリ(UNー1N)が基地内に墜落した事故で……」とありますが、政治のレベルでは前回説明したとおり、昭和55年(1980)から宜野湾市当局と那覇防衛施設局との間で学校移設先の交渉が進められていました。そのキッカケになったのが昭和55年10月2日の普天間基地内における事故かどうかは正直なところ不明も、昭和57年の事故がキッカケで移設計画が持ち上がったことは事実に反する可能性が極めて高いと判断できます。

この点は「第96回国会衆議院 – 沖縄および北方問題に関する特別委員会(昭和57年3月10日)」の議事録を確認して初めて気がつきました。この場を借りて訂正します。

ちなみに我が宜野湾市は昭和47年(1972)年以降、普天間基地絡みの航空機墜落事故が5件あります(宜野湾市の公式サイト公表分から抜粋)。

・昭和55年10月2日 普天間飛行場滑走路で、通常の離着陸訓練中OVー10ブロンコが墜落し、乗員1人死亡、1名が負傷した。

・昭和57年8月19日 普天間飛行場での訓練中のUNー1Nヘリが離陸する際に滑走路のはずれに墜落、場所は普天間第二小学校からわずか 200m 余の距離であった。

・平成4年10月20日 普天間飛行場内で同基地所属のCHー46シーナイト中型輸送ヘリが墜落、負傷者はでなかったものの住宅地域に近く普天間第二小学校よりわずか500m足らず、あわや大惨事となる事故であった。

・平成6年4月6日 普天間飛行場内で同基地所属のCHー46 シーナイト中型ヘリが離着陸の訓練中に同飛行場滑走路に墜落したが乗員4人は自力で脱出した。

・平成16年8月13日 米海兵隊所属のCHー53D大型輸送ヘリ1機が沖縄国際大学構内第1号棟に接触後墜落炎上、乗組員3人のうち1人が重症、2人が軽症。民間人に負傷者なし。

上記の分に加えて今年(2017)12月13日のヘリ部品落下を合わせると6件で、大雑把に計算すると7~8年に1度は事故を起こしている勘定になります。それゆえにブログ主は

早く普天間基地を辺野古に移設してほしい

と切に願う次第であります。普天間第二小学校の立地は児童の通学を考えると実に理想的な場所にあるため、普天間基地さえ移設すれば普二小の問題はすべて解決することになります。もしもこのまま実現性がゼロに近い「県外移設」を唱え続けると、単純計算で7年後にはまた事故が起こる可能性があります。そうなった時、移設反対派はどのように申し開きをするつもりでしょうか?そのあたりを甘く見ているから結果として今月13日の事故は起こったのです。

米軍や日本政府に文句を言う前に、まず自分達が今できることを優先して行ってほしい。ブログ主が現在の沖縄の政治に要求するのはこの1点だけです。それが分からない人が、「辺野古新基地建設反対」を唱えているんだなと実感しつつ、今回記事を終えます。