今回は昭和24年(1949)12月3日に『うるま新報』に掲載された記事「タイム誌記者の見た占領下四年後の沖縄」の全文を掲載します。昭和24年10月に沖縄に赴任したジョセフ・R・シーツ少将の時代になって初めて米人記者が沖縄を自由に取材することが出来、その時来島した記者が「忘れられた島 – 沖縄」のタイトルでタイム誌に掲載したものになります。
この記事はよく引用されるのですが、ブログ主も今回初めて全文を参照しました。当時の米国人の沖縄観が反映されて非常に興味深い内容です。ちなみに『うるま新報』に掲載された分は旧漢字こそ訂正しましたが、当時の文体そのままでアップします。それと参考までに、『平良辰雄回顧録 – 戦後の政界裏面史』にも同じ記事がありましたので併せて掲載します。平良辰雄さんの回顧録はうるま新報掲載文とちょっと文面が違うところが面白いです。読者の皆さん是非ご参照ください。
タイム記者の見た占領下四年後の沖縄 – うるま新報 1949年12月3日
米国が莫大な物量と死傷八万という高価な犠牲で沖縄を占領してから四年、マ司令官は外部から何等の注意をひくことなく沖縄の占領をつづけて来たが最近シーツ少将が米国新聞記者に対し最初の自由な沖縄観察を許した際沖縄の諸所を観察したタイム誌のフランク、キプニイ記者はタイム誌11月28日号に「沖縄 – 忘れられた島」と題して大要次のように報道している
沖縄の水田といも畑は二つの巨大な陸軍部隊が11週間に亘って戦ったたこ壺や血のしみた壕をおおっている。曾ての端正な石造家屋の黒ずんだ礎石は雑草に埋もれ、そこいらにはテントやまた捨てられた米国製のトタンで出来た掛小屋が散在している。
過去四ヵ年、貧しい上に台風におそわれた沖縄は、陸ぐんの人たちからは戦線の最後の宿営地点と云われ、司令官たちの中の或る者は怠慢で仕事に非能率的であった。そのぐん紀(軍紀)は、世界中の他の米駐留ぐんのどれよりも悪く、一万五千人の沖縄駐留米ぐんが絶望的貧困の中に暮らしている六十万の住民を統治して来た。グロリヤ台風が沖縄を襲って甚大な被害を与えた時陸ぐんでは遂にその情況を調査した。琉球司令部は改組され、朝鮮のぐん隊で立派な仕事をした。明朗で精力家のジョセフ、アール、シーツ少将が、イーグルス準将に代った、更に空ぐん司令官も細心で物静かなキンカイド少将に代ったが、司令官が変ってから沖縄の駐留米軍の士気は大に是正された
占領軍の悩み
多くのぐん人家族は渡り芸人のキャンプの如きコンセットで生活しているが一人の若い将校は「台風にトタンを吹きとばされては打ちまた吹きとばされては打つというあんばいでは嫌になりますよ」とこぼした、沖縄の全駐屯部隊十分なへい舎をもつに至るまでは三年の日子と七千五百万弗の金を要する(議会は既に五千八百万弗を支出した)沖縄は米陸ぐんの才能のない者や除者の体のよい掃き溜になっていた。去る九月(一九四九年)に終る過去六ヶ月間に、米ぐんへい士は殺人廿九、強姦十八、強盗十六、殺傷三三という驚くべき数の犯罪を犯した。シーツ少将は直ちに士気高揚の講座を設置して「諸君は米国政府の無任所外こう使節である」と、将士に厳しく訓諭した。
沖縄人の苦悩
沖縄人はその苦しい生活を闘牛の如き簡単な娯楽でまぎらわす暢気な国民である、彼等は米国人がすきで、沖縄が米国の属領となることをはっきりと望んでいる、沖縄人は六十年以上の長い間沖縄人を田舎者とべつ視した日本ぐんや日本商人によって搾取されていた、米ぐんが上陸して来て沖縄人に食糧と仮小屋を与えた時彼等は驚き且つ喜んだ 米国は沖縄人を被解放民族と言ってはいるが米ぐんは占領中時に日本がしたのよりも厳しく沖縄人を取扱った、沖縄の戦闘は沖縄の農業及び水産業等の小規模な経済を完全に破壊した。米国のブルドーザーは沖縄人が一世紀以上も骨身をおしまずにつくった丘陵の畑をわずか数分間でふみつぶした。終戦後沖縄人は米国の施し物で生活してきた多くの島民は払下げの米ぐんシャツやズボン以外の衣服をもっていない、沖縄人はぐん政府を通じてしか外部と貿易が出来ないがこれは実際には貿易が全くないことを意味している、その結果は台湾との活発・密貿易となってあらわれている、しかし沖縄人は密貿易でも得をしていない、なぜなら沖縄人は米ぐん施設より盗んだ若干の物品より外にバーターすべきものをほとんどもたないからである、野嵩高校の窓のない職員室で髪のぼうぼうとした老年の島ぶくろ松五郎校長は「ここの生徒達はしっかりした希望をもちえないほど迷っています。もしあなたにしても米航空隊の作業場ではたらくこと以外に就職口がないとすれば何を努力してハイスクールを卒業する必要がありましょう」と溜息をついていた。
復興決意
沖なわの諸問題を処理しようとて過去四年間に初めて組織的な努力を続けているシーツ少将及びその幕僚は沖なわの小マ司令部とでもいうべきものを組織するため六十乃至八十名の企画者を集めている。那覇では米国技師達が破壊された港の修復の計画で忙しく、また太平洋最大の汽船の入港出来る新しい港について話し合っている。シーツ少将は米国は沖なわに対して作戦上の関心よりもなお一層多くの関心をもっていると信じており「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」といったシーツおよびキンカイドの両少将及び幕僚はその責任に直面している彼らは沖なわを復興すべく決意を固めている。
『平良辰雄回顧録 – 戦後の政界裏面史』の51-53㌻より抜粋分
(中略)シーツをめぐる印象であるが、この時代にアメリカの“タイム”という雑誌の記者の見た占領下四年後の沖縄について「忘れられた島 – 沖縄」と題した印象記が沖縄の新聞にも報道された。この内容については、はじめ連絡会議の席で、シーツ長官が志喜屋知事に説明したそうだが、シーツの施政をかなり評価した部分も現れたためか、志喜屋知事は「これで沖縄も前途に明るいものを見出した」と、こおどりしたとかという話が伝わってきた。
「忘れられた島 – 沖縄」の要所を再録してみよう。戦後の沖縄をはじめてみた米人記者の態度と当時の沖縄の状況をかえりみるよすがになればいいだろう。
沖縄の水田と、いも畑は、二つの巨大な軍隊が十週間にわたって戦ったタコ壺や血のしみた壕をおおっている。かつての端正な石造家屋、黒ずんだ礎石は雑草に埋もれそこいらにはテントや、捨てられた米国製のトタンで出来た掛小屋が散在している。過去四ヵ年、貧しい上に台風に襲われた沖縄は、陸軍の人たちからは戦線の最後の宿営地といわれ、司令官たちのある者は怠慢で、仕事も非能率的であった。
その軍記は、世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪く、一万五千人の沖縄駐留米軍は絶望的貧困の中に暮らしている六十万の住民を統治してきた。
グロリヤ台風が沖縄を襲って膨大な被害を与えたとき、陸軍はついにその状況を調査した。琉球の米軍司令部は改組され、朝鮮の米軍で立派な仕事をした。
明朗で精力家のジョセフ・R・シーツ少将が、イーグルス少将に代り、空軍司令官も細心で物静かなキンケード少将がなったが、司令官が交代してから沖縄の駐留米軍の士気は大に是正された。
多くの軍人家族は旅芸人のキャンプのようなコンセットで生活しているが、一人の若い将校は「台風にトタンを吹き飛ばされては打ちつけ、また吹き飛ばされるという状態で、全くいやになります」とこぼしていた。
沖縄の全駐留軍が十分な兵力を持つにいたるまでは、三年の日子と七千五百万ドルの金を必要とする(米国議会は、すでに五千八百万ドルを支出した)。
沖縄は米軍陸軍の才能のない者や、除隊者の体のいい「はきだめ」になっていた。
さる九月(一九四九年)に終わった過去六ヶ月間に、米軍兵士は殺人二十九、強姦十八、強盗十六、殺傷三十三件というおどろくべき数の犯罪をおかした。
シーツ少将は、直ちに士気高揚の講座を設けて「諸君は米国政府の無任所外交使節である」と、将士に厳しく訓諭した。
沖縄人はその苦しい生活を斗争のような簡単な娯楽でまぎらわすのん気な国民である。彼らは米国人が好きで、沖縄が米国の占領となることをはっきり望んでいる。
沖縄人は、六十年以上の長い間、沖縄人を田舎者と軽蔑した日本軍や日本商人によって搾取されてきたが、米軍が上陸して、食糧と仮小屋を与えたとき、彼らはおどろきかつ喜んだのである。
米国は沖縄人を被解放民族といってはいるが、米軍は占領中、日本がしたよりも厳しく沖縄人を取り扱ったものである。
沖縄の戦斗は、沖縄の農業や水産業など小規模な経済を完全に破壊した。米国のブルトーザーは、沖縄人が一世紀以上も骨身を惜しまずにつくった丘陵の畑を数分間で踏みつぶした。
終戦後、沖縄人は米国の施し物で生活してきたが、多くの島民は払い下げのシャツやズボン以外には衣服を持っていない。沖縄人は、米政府を通じてしか外部と貿易できないが、これは実際には貿易が全くないことを意味している。
その結果が台湾との活発な密貿易となって現れているのである。
しかし、沖縄人は、密貿易でも得はしていない。なぜなら、米軍施設から盗んだ若干の物品よりほかにはバーターすべきものがほとんどないからである。
野嵩高校の窓のない職員室で髪のぼうぼうとした老年の島袋松五郎校長は「ここの生徒達は、しっかりした希望を持てないほど迷っている。もし、あなたでも米軍の航空隊の作業場で働く以外に就職口がないとすれば、何を苦労してハイスクールを卒業する必要があるのだろうか」とため息をついていた。
沖縄の諸問題を処理しようと、過去四年間に初めて組織的な努力を続けているシーツ少将とその幕僚は、沖縄の“小マッカーサー司令部”とでもいうべきものをつくるために、六十ないし80人の企画者を集めている。那覇では米国の技師たちが破壊された港の修復で忙しく、また太平洋最大の汽船が出入できる新しい港の建設について話し合っている。
シーツ少将は、米国は沖縄に対して作戦上の関心よりも、一層多くの関心を持っていると信じており、「それはキリスト教国民の他国民に対する道義的責任である」ともいっている。
シーツおよびキンケードの両少将と幕僚はその責任に直面し、沖縄を復興すべく決意を固めている。