アヌヒャー・デージ・ウシェーテル(あの野郎超むかつく)  その2

前回の記事において、個人の私怨は歴史の分岐点になりやすい件を説明しました。”歴史は必然”とお考えの読者にはなじみがない発想かもしれませんが、日下先生のご指摘通り、分岐点の研究は将来の予測に役立ちます。 

ただし歴史的事実に個人の感情がどの程度絡んでいるかは、正直なところ説明がむつかしいです。「ウシェーテル(むかつく、生意気)」という負の感情からの対立はハッキリ言って小中学生の喧嘩レベルですが、大人の場合はそこに”正義”がからんでくるから実に性質が悪い。 

いわば“悪意を隠して正論を語る”パターンで、とにかく相手に対して容赦がない、しかも本人が自身の論理に酔ってしまって、しまいには心中にある負の感情に気づかなくなるケースがほとんどです。だから説明が非常にむつかしいし、歴史学者は個人の感情については極力触れないよう歴史を記述する傾向があります。 

分岐点の研究は、言い換えると「歴史にイフ」を適用することに他なりませんので、従来の歴史学者が敬遠するのもやむを得ません。ただしブログ主は単なるアマチュアの歴史オタですので、調子に乗って分岐点を考察できます。 

一例をあげると平成2年(1990)12月の沖縄知事選挙で現職の西銘順治さんが負けた理由の一つが、同年2月の衆議院議員選挙で実子の順志郎氏を擁立したことに対し、仲村正治・宮里松正サイドが反発して結果として深刻な保守分裂を招いたことにあります。いわば「西銘ウシェーテル(怒)」の感情が県内保守に救いがたい亀裂をもたらしてしまったのです(このあたりのいきさつは戦後政治を生きて – 西銘順治日記から参照)。 

平成7年(1995)12月に軍用地の代理署名を大田昌秀知事(当時)が拒否したのも、直前の沖縄米兵少女暴行事件がきっかけですが、実は平成6年(1994)7月18日の村山富市首相(当時)の所信表明演説で日米安保体制の堅持と自衛隊による専守防衛を認めたことが分岐点になっています。つまり革新勢力の基本方針である”日米安全保障条約の破棄”と”自衛隊は憲法違反である”という二つの柱を日本社会党の村山首相が真向から否定したことに対する大田知事の怒りです。 

この2つのケースは、もしも西銘知事が実施を衆議院選挙に擁立しなければ県内保守の分裂は避けられただろうし、村山富市氏が内閣総理大臣に指名されなければ、大田知事は代理署名に拒むことはなかったかもしれません。(残念なことに両ケースとも沖縄の政治において深刻な負の遺産を残してしまいます)。

分岐点の考察は、遠慮なく歴史に仮定(イフ)を適用するため、嫌悪感を抱く読者もいるかもしれません。だがしかし日下先生がおっしゃる通り、前頭葉を泣かせることなく、当ブログでは大胆に歴史の分岐点を考察していく予定です。悪しからずご了承ください。


【関連リンク】

村山内閣総理大臣所信表明演説(平成6年7月18日)

http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/pm/19940718.SWJ.html