ここ数日、ブログ主は大正時代に起きた政争(いわゆる大正シルークルー政争)についていろいろ調べていました。この案件は現代の沖縄の歴史家がほとんど取り上げない、事実上の黒歴史扱いで資料探しにも一苦労ですが、その過程で実に面白いことを発見しました。この騒動の発端は、大正13年(1924)の衆議院選選挙における岩元禧(いわもと・き)知事と伊礼肇(いれい・はじめ)の先輩・後輩関係のもつれが原因だったことです(ネタ元は新聞五十年 – 高嶺朝光(著))
大雑把に説明すると、二人は七高時代の先輩・後輩で大変親しかったのですが、その縁で岩元知事が“政友会”からの衆議院選挙への出馬を打診したところ、後輩の伊礼氏が“憲政会”からの出馬を決断したため先輩が激怒、その後両者が猛烈な金権選挙を展開、その結果として中頭郡で後に“政争地獄”と呼ばれるほどの地域対立が発生した…という流れです。
大正シルークルー政争は、そこに至るまで様々な伏線があり、大正13年の衆議院選挙はその伏線回収になってしまったのですが、この案件は言わば“個人の私怨”が歴史的事件を引き起こした典型的な例といっても過言ではありません。沖縄の方言で「アヌヒャー・デージ・ウシェーテル(あの野郎超むかつく)」という言葉がありますが、岩元知事と伊礼氏の対立はまさにそのパターンです。そしてシルークルー騒動に限らず個人の私怨が歴史を大きく動かした事例が意外にも多いのです。
この発想は元ネタがあります。人間はなぜ戦争をするのか – 日下公人(著)からの一文を抜粋します。
~ドイツの対英開戦は、なんと外務大臣の私怨~
ドイツの対英開戦も、必然であったとは言えない。ドイツの対英開戦にはいくつかの要因があるが、人の知らない話を書いてみよう。昭和14年当時、ヒトラーはイギリスを十二分に尊敬していたから、イギリスと戦争する気はなかった。
その時、「イギリス恐るるに足らず」と、もっとも激しく対決を主張したのは、リッベントロップ外務大臣である。彼はその前はイギリス大使で、それほど反英的な人物ではなかった。ヒトラーに抜てきされて大使になった時は、イギリスと対等に交渉ができると大喜びし、バッキンガム宮殿で丁重にもてなされた、と喜んでいた。
ところが、リッベンントロップが自分の子どもをイギリスのハイ・ソサエティの学校に入れようとしたら、入れてくれなかった。
ドイツ大使の息子だから特別扱いしろ、と言ったあたりが成り上がり者のおかしいところだが、とにかく入学は駄目だと言われて、カンカンに怒ったらしい。それでかどうか、ドイツに帰国後は対英開戦を主張する急先鋒になった。子どものことが原因というと意外な感じがするが、実は案外大きな要因かもしれない。
「歴史の法則」の前には個人の意見など問題ではない、という考え方が染み込んでいる人には雑学的な面白エピソードにすぎない話だが、私は、もう少しこだわってみたい。
もちろん、リッベントロップの主張が通ったのは、周辺にそういう情勢があったからだが、しかし、情勢の研究と当事者の意識の研究は、車の車輪のごとく等しく重要なものだと思う。歴史の結果は一つしかないが、そこへ行くにはいくつもの分岐点がある。分岐点の研究は将来に約立つ。それを法則や原則で片付けるのは「思考の節約」であって、せっかくの前頭葉が泣くというものである。
日下先生のご指摘どおり、分岐点のチェックは極めて重要です。そして分岐点になりやすいのが個人の私怨です。そこでブログ主も調子に乗って“アヌヒャー・デージ・ウシェーテル(あの野郎超むかつく)”の観点から琉球・沖縄の歴史を動かしたと思われる事例を複数取り上げてみたいと思います(つづく)。
【余談】
今回の第48回衆議院議員選挙における民進党の分裂の原因の一つが私怨で、具体的には「前原この野郎」でしょう。それを立憲民主党の面々は護憲だの云々で理論武装しているだけで、私怨が民進党の(事実上の)解党という歴史的事例を引き起こしたと見ても間違いではありません。
【関連リンク】 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ