大正シルー・クルー政争 史料その3

泡瀬復興期成会より昭和63年(1988)に発行された『泡瀬史』に、大正シルー・クルー政争の生々しい体験者談が記載されていましたので抜粋します(435~438ページ)。地元宜野湾に関しては、体験者の証言や地域史『ぎのわん』から市役所襲撃事件等の話を知っていたのですが……けっこうエグい話です。

白黒闘争 – そのほろ苦い思い出 外間宏三(元・琉球大学理学部教授)

時ならぬ怒号や罵声で眼が覚めた。明け方であった。昭和6,7年頃、私が10才前後のことだったと思う。父が雨戸をあけると、そこには、おおよそ数十名近くもあろうかと思われる屈強の大人達が口々にわめきながら我が家を取り巻いていた。その中には制服の警官も一人まじっていた。恐らく大人達の暴走を警戒してのことであったろう。私は父の後からこわごわと、この暁のただならぬ光景を見ていたのであるが、子供心にもこの父に罵声を浴びせている大人達がどういう人々であるかすぐにのみこめたのである。というのは当時、我が家は好むと好まぬとにかかわらず白黒闘争の真っただ中に置かれていたのである。私の両親は那覇泊の出身である。父は泊では多少は名の知られた旧家の長男として生まれたが、大家族の貧乏所帯の家計を助けるために、写真の技術を修得するや、写真機一台をかついで泡瀬におもむき、そして泡瀬の人となったのである。時に父23歳の時であったという。

幸い、泡瀬の風土や泡瀬の人々の誇り高い硬骨の気質も父の大いに気にいるところとなり、また、泡瀬の人々や近隣諸村の人々のごひいきのお陰もあって、戦争ですべてが潰滅するまで「外間写真館」は健在に営業を続けることができたのである。ところが、この一見のどかな平和な我が家の生活も長くは続かなかった。降って湧いたような白黒闘争の渦の中に我が家が巻き込まれてしまったのである。当時泡瀬は中頭出身の民政党の伊礼肇代議士の有力な地盤の一つであったようだ。そこへ泊出身の当時、元元順病院の金城紀光氏(後に第六代那覇市長)が政友会から代議士に打って出ることになり、父は同郷のよしみで金城氏を推せんすることになった。そんなわけで、父は泡瀬区民の多数を占めた伊礼派の人々から反対派として、たちどころに村八分にされてしまった(不勉強でよく分からないが、その時が泡瀬の政治的色彩の白黒闘争の幕開けだったのだろうか)

父は必然的にクルーシンカにされてしまったのである。その頃の父の一派は僅かに数名という過少派に過ぎなかった(後に少しずづ増えていったと聞いている)私は一歩外に出ると常に冷たい目で見られているような気がしてならなかった。明らさまに、私を指さして「クルーのワラバー」と吐き棄てるように言う人もいた。そんなわけで、私はいつも気の小さくなる思いで過さざるを得なかった。

しかし、泡瀬区民全員が父を村八分したかというとそうではない。中には変わらぬ交際をつづけてくれた方々も居られたことを感謝をこめて誤解のないよう申し添えておきたい。

さて、話をもとに戻そう。なぜ、我が家に白派が大挙して押し寄せてきたのか、根も葉もないことだが、我が家に武器として日本刀をかくしているというデマがとんだらしい。それを調べに来たというのである。群衆と父とは相対峙していたが、突如一部の者が我が家に土足のままで踏み込もうとした。その時である。あのおとなしい父が仁王立ちに立ちはだかり一喝したものである。曰く、「お前らなんで、ひとの家に土足で上がるのか、もし日本刀があれば、それで自分の腹を切る。もしも無ければお前ら腹を切れ」と云い放ったものである。父の生涯95年の間にこんな勇ましい(?)姿をかつて見たことがない。父のあまりの剣幕にたじろいだのか、あるいは、その真剣さに嘘はないと見てとったのか、ついに我が家に足を踏み入れるようなことはなかった。そして、いつの間に人々は去って行ったのである。

また、こういうこともあった。いつの世にも、またどこにでも気骨溢れるへそ曲りの一匹狼というのは居るものである。孤軍奮闘の父にも数名の味方がいた。そのうちの一人に愛称「Hスー(○○のおとぅ~のニュアンスでしょうか)」がいた。よく父を訪ねては二人で酒を飲んでいた。しかし、酒が入ると気宇壮大になり歯に衣を着せず物を云う癖があって敵も多かったようだ。直情径行型で時にぶっきらぼうなところもあったが、その性質には憎めないのがあり、私は彼が好きだった。ある時、中通りから国吉病院に行く路地の四つ角で、酒に酔った人がなにやら大声でわめいている。みれば、Hスーである。恐らく白派の悪口でも云っていたのであろう。と、やにわに、一人の男が手に包丁を持って、Hスーに襲いかかった。不意をつかれた彼は角の店先に押し倒された。馬乗りになった包丁男は彼の胸めがけて包丁を振りおろした。私はHスーは殺されたと思った。しかし、彼はとっさに、包丁を手で受け止めていた。Hスーの手からは血が滴り落ちていた。一瞬の出来事であった。Hスーは男の人に抱きかかえられるようにして近くの国吉病院に運ばれていった。その時の情景が50年経った今日でも鮮やかに眼に浮かぶのである。

ともあれ、私はもっとも傷つきやすい幼少時代を暗い時代の泡瀬で過した。私の眼には大人のすべてが白派に見えた。私は極力大人と出会うのを避け、そして大人の顔色をうかがい、息をひそめながら子供時代を過していたような気がする。当時の泡瀬は私にとって暗いイメージしかないが、しかしたった一つ、救いであった事実がある。それは、子供同士(特に同級生たち)には白黒の区別や差別は全くなかったということである。私は黒派の息子なるが故に、友人から除け者にされたという記憶はない。いや、それどころか、私は気持ちのよい友人達に恵まれてきた。これらの友人達とは今でも、厚い友情のもとにかたく結ばれているのである。

あれから半世紀が過ぎた。いい年をした大人達が実にたわいもないことで、お互いに罵りあい、そして傷つけあった当時の光景が忘れることなく脳裏から離れない。このような愚を絶対に再演してはいけないとう願いをこめて、敢えてペンをとった次第である。諸賢のご寛恕をお願いしたい。


【関連リンク】石原昌淳(いしはら・しょうじゅん)さんのウィキペディアにも当時の泡瀬区のシルークルー政争の話が掲載されていますが、この記述は『泡瀬史』からの抜粋です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%98%8C%E6%B7%B3