今回は琉球新報社会部編の『昭和の沖縄』(昭和61年刊行)からシルー・クルー政争の部分を抜粋します。
シルークルー騒動 – 政争絡みの対立
大正末期から昭和初期にかけ政争に絡んだ地域住民間の派閥対立が激化した。世にいう「シルークルー騒動」(白黒騒動)である。
シルー(白)、クルー(黒)という呼び名は廃藩置県当時の開化党と頑固党に起因する派閥抗争を指す言葉。しかし、大正時代のシルー、クルーは開化とか、保守ではなく、むしろ賛成とか反対、あるいは擁護、非擁護を意味している。
発端は北谷村から
大正に入り、なぜこの呼び名がよみがえったかというと中央の政争抗争が県内に持ち込まれ、それに伴いさまざまな形の派閥対立が生じたことによる。それに本土に遅れること四十余の大正九年、特別県制と特別町村制が廃止され、地方制度のすべてが他府県並みになり、地方自治体が本格化。県民が政治意識に芽生えた時期であった。ところが派閥対立は必ずしも政党次元の憲政会対政友会という形でなく、党派闘争の色彩を帯びながらも、その実態はさまざまな人脈などを軸とした前近代的な地域対立の域を出なかった。
大正期のシルークルー騒動の発端は北谷村に始まる。同村の村長伊礼肇(いれい・はじめ)氏が衆議院選挙に出馬したころ頂点に達した。大正十三年のことである。伊礼氏という政治家を抜きに同村、あるいは県内のシルークルー騒動は語れない。シルークルー騒動は北谷村を中心に次々各地方に広がっていったからである。
伊礼氏は大正八年、京都帝大を卒業。その翌年、沖縄に初めて自治制が敷かれた村長選に出馬、当選している。二十七歳だった。昭和三年には衆議院議員選挙で初当選、以来昭和二十年まで国会議員として活躍している。
伊礼氏が衆議院選に始めて挑戦したのは大正十三年。その時、中頭一円で地盤を確立するため、政治的人脈工作を活発に展開、それが派閥対立抗争を激化させる要因となった。伊礼氏は憲政会に属していた。憲政会は昭和二年に政友本党と合同。立憲民政党(略称・民政党)となった政党である。伊礼氏は民政党沖縄支部長でもあった。
嫁取り敬遠、離婚も
当時、民政党系をシルー、政友会系をクルーと呼んだ。村内は二つに割れ、激しい抗争が展開された。
「あのころシルークルー騒動を二度と繰り返すまいということで、この話は戦前までタブーとなっていた。シルー、クルー間の婿取り、嫁取りは敬遠され、離婚ざたもあった。親戚の葬式に行くと反対派だということで追い返される。同じ地域だというのに村芝居の際は舞台が別々につくられ、闘牛場も二つつくられた」
真栄城兼徳北谷町教育長は、感情的対立の模様をこのように話す。同村の年寄りは今でもシルークルー騒動については口が重い。
昭和七年には北谷小学校の校長が村議選で政友派の運動をしたということで、同村議会の民政派が追放運動を起こし、県はその村長を西原小学校長に任命したが、皮肉にも西原村も民政派優勢で、「赴任すれば家をくぎ付けにする」という騒ぎも起きている。
このようにシルークルー騒動は全県下に波及、傷害事件もしばしば発生した。昭和五年、越来村(現沖縄市)では反対派が村長を襲撃、こん棒などで殴打し、重症を負わす、という事件もあった。
国頭村におけるシルークルー騒動もし烈だった。同村では大正十三年ごろから対立が激化した。
対立は上方(国頭村与那以北)の「立憲団」と、下方(同伊地以南)の「同志会」という図式だった。抗争は村長選を契機に勃発、五年間続いている。
「辺野喜川の水中格闘事件」
当時、国頭村青年団にいて渦中に巻き込まれた山城順善さん(七八)= 国頭村字半地一三五 = は述懐する。
「事あるごとにあのころは上方と下方に分かれ争っていた。もちろん青年団も二つに分かれ、私は下方。いつだったかは忘れたが、辺野喜川の川沿いで上方を非難する集会を二十人ほどで開き、演説で気勢を上げていたら、川向こうに上方の青年団がやって来て、集会めがけ石を投げ始めた。こちらも負けていません。川につかりながら石を投げ返し応戦したのですが、上方の人数が多く退散。与那の下方派に家にたどり着き、安心したのもつかの間、負けて帰ってくるとは何だと、どなられてしまった」
これは有名なシルークルー騒動に絡む「辺野喜川の水中格闘事件」である。昭和二年の村会議員三人の補欠選挙が引き金となって発生している。『国頭村史』によると、その時、上方からは安田の新垣清太郎氏と奥の宮城直帯氏、下方からは佐手の宮城川之助氏と辺土名の宮城親輝氏が立候補、三人の宮城氏が当選した。
二人の当選者を出した下方は勢いづき、その当選祝賀会を辺野喜で開催した。当時、辺野喜は上方組と下方組の勢力が全く伯仲していた集落で、共同店をノコギリで真っ二つに切ったというほどの抗争地だった。上方組は下方組がここで当選祝賀会を開催するのは、その勢いで下方組の優位を確立する魂胆があるとし、奥の青年を中心とする多数の青年が辺野喜に乗り込んだ。そして夕闇せまるころ両派の青年たちが辺野喜川で大格闘を演じた – と記している。
山城さんが参加したという集会は、村史からすると「当選祝賀会」だった。
「当時は選挙に勝つために議員を軟禁するカンヅメ作戦もありました。嫁や婿取りも政争の具に使われたり、『あんなところに大事な娘をやれるか』と嫁にやるのを拒否した話もありました。しかし、今から考えると若いから先輩のいいように利用されただけという気がします」
山城さんはむなしさだけが残る、としみじみと語った。
県内各地で繰り広げられた政争の影は村役場人事から教育人事にまで及び、感情的対立の激化は生活をも根底から破壊するものであった。青年団は昭和七年ごろからその「愚かさ」を指摘、粛清運動などが起き、政争は下火になっていった。そして、同時に県民は上海事変、日華事変、太平洋戦争と次第に高くなる軍国主義の足音に巻き込まれていった。
=一口メモ=
事大主義が要因の抗争
大正期に入っての波乱は、中央の政争抗争が県内に露骨な形で持ち込まれ、また、沖縄の政治集団が中央の最有力政党と結びつこうとする事大主義的な発想などが要因となっていた。
沖縄は全県一党の政友会一色に染まっていた。
そこへ、大正三年、憲政会派の第十一代大味久五郎知事が就任。大味知事は政友会に圧力をかけ、強引な脱党工作を行った。県内の衆院議員、県議員らは次々、憲政会にくら替えした。これは事大主義的傾向にあった県内の政治集団の無節操さを示すものであった – と指摘されている。中央政界の変動が県内の政治集団の分裂、再編の促し、これがまた政党政治の弊害も助長したといわれる。
このような伏線がシルークルー騒動へと引き継がれていった。
【関連項目】
憲政会(Wikipedia より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E4%BC%9A
立憲民政党(Wikipedia より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%85%9A