大正時代に沖縄県全域で発生した政争についての史料です。近現代の沖縄における屈指の黒歴史ですが、近代デモクラシーの本質を考える上で極めて重要な事件なので、可能なかぎり史料を掲載します。今回は『沖縄大百科事典』と『近代沖縄のあゆみ』からの抜粋です。
『沖縄大百科事典』 昭和58年(1983)沖縄タイムス発行より抜粋。
シルー・クルー 白と黒の方言。転じて政治的派閥対立の代名詞。白党・黒党ともいう。“琉球処分”前後、琉球の独立を保持しようとする“頑固党”のなかに、反抗の態度が消極的な白党(シルー)と、親清国派で頑強に琉球処分に反対する黒党(クルー)があり、黒党は〈黒頑派〉とも呼ばれた。この用語は、やがて本来の意味を失い、のちには政治派閥対立一般に転用されるようになった。大正時代に政党政治が沖縄に持ち込まれ、各種の政治派閥が生じた。そのきっかけとなったのが、北谷村長伊礼肇(いれい・はじめ)が衆議院議員に出馬する過程で生じた激しい派閥抗争である。その余波が他村にも及んださい、明治初期の頑固党の内紛に用いられたシルー・クルーのことばが復活した。シルー・クルーの対立は日常の人間関係まで損ない、家庭や親族・知友間の不和を生み、常識を超える数々の問題を残した〈太田良博〉
伊礼肇 いれい・はじめ 1893.10.15~1976.6.7(明治26~昭和51)弁護士、政治家。北谷町北谷に農家の三男として生まれる。沖縄県立中学校卒業後、第七高等学校に進学、ついで京都帝国大学法学部に学んだ。1919(大正8)同大学を卒業。ただちに沖縄県地方課の県属を拝命。翌年請われて北谷村長選挙に立候補、当選する。当時27歳で、〈若手の新知識 – 法学士村長〉として話題になった。特別県制が撤廃され、全国一律の市町村制が実施された時期であり、意気軒昂たる伊礼は村政改革にとりくむが、かえって旧来の保守勢力の反発をかい、それが対立抗争を生むはめになった。いわゆる〈大正シルー・クルー騒動〉の起こりである。23年村長を辞し那覇に法律事務所を開設、翌24年5月、憲政会の公認を受け衆議院議員選挙に立候補するが落選。28年(昭和3)2月に実施された同選挙では首里・中頭郡から立憲憲政会公認をえて立候補、県会議員である実兄の伊礼正幸の支援も受けて初当選する。以後6回連続当選。第一次近衛内閣の拓務省政府委員などを務める。
伊礼の名が県内に広く知られるようになったのは、30年6月に起きた“守屋知事排撃問題”である。このとき伊礼は、民政党沖縄県支部長をつとめていたが、守屋知事の施政が県人を差別視しているとしてその任を辞し、知事排撃運動の先頭にたった。36年2月の衆議院議員選挙では国民同盟から立候補し、当選した。国民同盟は伊礼が恩顧を受けた民政党幹部で内務大臣の安達謙蔵が創設したもので、伊礼の転進はいわば自然の成行きだった。その後、戦時体制下で実施された衆議院議員選挙(1942.4)では、翼賛政治体制協議会から出馬、当選している。戦後は政治活動から身を引き、54年沖縄軍用地諮問委員長をつとめたほか、三和相互銀行を創設し頭取に就任。76年、那覇市久米の自宅にて急逝する。〈保坂広志〉
『近代沖縄のあゆみ』 昭和47年(1972)新里金福、大城立裕共著 太平洋出版社より抜粋
=大正「シルー・クルー騒動」=
シルー・クルー(白黒)ということばは、もと廃藩置県をめぐっての開花党と頑固党との対立を言いあらわしたものであった。このばあい、白が開花党をいい、黒が頑固党をいうことは明らかであろう。大正年間に、主として中頭郡一円におこった白黒騒動は、ちょうど勃興しつつあった政党政治を背景とした、対立騒動である。このばあい開花や保守という色分けは難しいし、予言的な存在もないのであるから、いずれを白、いずれを黒とは指しがたい。
事のおこりは、伊礼肇という政治家の出現である。伊礼は北谷村の生まれで、兄の正幸とともに、幼時から俊足として近郷に名が通っていたが、1919(大正8)年に京都帝大を卒業して帰郷すると、大学出がすくない当時、その声価が期せずして高かったことは、うなずける。ただちに村長に推され、翌9年には北谷村長として、政治家への第一歩を印した。時あたかも、特別制度撤廃、市町村自治制の出発点にあたっていたし、新市長の意気軒昂たるものがあった。そして、その周囲に派閥が生まれるのも、自然の理であった。伊礼自身は、1924(大正13)年に衆議院議員総選挙に出馬しているし、中頭一円に地盤をかためる必要もあったから、それがいよいよ対立抗争に拍車をかけた。伊礼は憲政会から立候補したから、相手側は政友会系だという理屈になるはずだが、末端の大衆における対立は、あるいは政党意識はなく、通俗的な派閥抗争であったとおもわれる。
もっとも陰悪な対立は、北谷村・宜野湾村・西原村にみられた。
北谷村では、派閥間に嫁とり婿とりも遠慮され、離婚沙汰もあり、ある男は、母方の祖父が死んだのでその葬式にいったら、その家が反対派にくみしていたので、取り巻きから追い返された。
宜野湾村で、ある村長は月給1円で村長をつとめた。当時、村長は議員がえらび、その給料も村議会で決めたのであるが、この村長のばあいは任期中に議員の多くが反対党に切り換えられ、月給を1円におさえられてしまったものであった。露骨なクーデター工作であるが、村長も意地で任期をつとめあげた。
村民の多数をわが党にひきいれる工作は常時おこなわれ、その手段としては、戸数割が材料につかわれ、「あれを村長にすると、戸数割があがるぞ」とおどかす、などという手がとられた。
派閥間の喧嘩は日常茶飯事であったが、宜野湾村普天間に、大きな傷害事件がおこった。喧嘩が凶器をともなう障害沙汰になったので、警察がのりだしたところ、示威のために抜刀したので、それがまた問題になった、ということがあった。この障害事件は、全県下に噂がひろまって、それがまた対立意識をよけい煽りたてた。
西原村では、ある年に赴任した校長が、村内の多数派の反対の側に立つひとであったので、その赴任を拒否するために校長の住宅に釘を打ちこんだ。この村では、昭和にはいって、伊礼派の某が村長になると、かつてない勢力を身につけ、沖縄でいちばん高い棒給をあてがわれたが、反対派の議員には棒給がない、という時期もあった。統制経済時代にはいって、石油が配給制になったが、反対派は配給がなく、家によって灯がともった家とともらない家がある、という珍奇な差別が、平気でおこなわれた。
やはり西原村のある村長は、その進退について、村民に白紙委任状を提供するということを余儀なくされ、その身分はいつ剥奪されるかも知れない危機におちいった。那覇にあった沖縄弁護士会ではその噂をきいて問題にし、人権問題だとして、その白紙委任状を撤回させようとしたが、それが動いたときは、すでに村長から辞表が提出されていた。
村役場人事から教員人事にまでその影響はおよんだ。昭和にはいってから、いわゆる“アカイ教員”検挙があったが、教員の多くがこのように左傾化していったのも、社会主義の全国的風潮になずんだもとのはいえ、こうした政党派閥の腐敗的現象にたいする反発が、若い血気の教員を走らせた、ということがいえるのではないか、という人もいる。
派閥抗争は、およそ非合理的なものである。今日(1968)、とくに離島町村においては、いまだにこのような風潮があとをたたず、町村役所の最下部職員にいたるまで町村選挙運動に狂奔しなければならない。島には、旅館が与党用と野党用の二つあり、なかには連絡船が二隻ある、という現象がある。この現象の原型が、沖縄では大正年間、地方自治体が本格化した時期におこった。この地方自治は、県民が久しく待望していたものであり、ちょうどまた、世のインテリたちのあいだには、「デモクラシー」ということが大きな関心をよんでいた時期でもあった。問題は、“民主主義”というものをめぐって、政治意識と社会意識とのあいだに、ある逆説がなりたっている、ということであろう。