先日ブログ主は伊波普猷先生著の『古琉球』をチェックしていたところ、面白い論文があったので当ブログにて紹介します。きっかけは今回の内容とは全く関係ありませんが、「沖縄独立の影に琉球王国復活をもくろむ?!あの勢力」という Web ページを参照したのがキッカケで、久米人(クニンダンチュ)についてあれこれ調べている最中に伊波先生の論文を発見した次第です。
その論文は明治42年(1909)沖縄毎日新聞に投稿された記事で、古い諺から当時の沖縄社会の様子を的確に描写しているのが実に興味深いです。しかも驚くべきことに記事掲載から100年以上経過しても、現代人にも理解できるほどの分かり易い文章で纏められています。これが天才の天才たる所以なのでしょうか、全文を掲載しますので伊波先生の凄さをご堪能ください。
(注)旧漢字はブログ主で訂正しました。国立国会図書館デジタルコレクション蔵(インターネット公開部分)の「古琉球」からの抜粋ですが、一部読み取れない部分がありましたので、そこは●にしました。
俚諺は一種の詩である。社会の意識を余程巧に言ひ表はした言葉である。社会の群衆は或事に関して、知らず識らずの間に一種の考へを懐いて来るものである。それを言ひ表はさうとして久しく言ひ表はせないでゐる。そこへ群衆の中に、誰か一人詩人的性格を有する者がゐて、群衆に代つてこれを巧に言ひ表はし、群衆をしてさ(そ)こだと當はしむることがある。かういふやうに言ひ表はされた言葉がすなはち俚諺である。これは一種のインスピレーションなしに作れるものではない。よしやどこかの才人が勝手に作ることがあるとしても、それでは一人や二人はうなづくかも知らないが、社会全体は容易にうなづかない。されど兎に角俚諺は民族心理研究の好資料である。沖縄の俚諺の如き一種の特色を帯びた俚諺も亦その好資料たるを失●ない。彼の人口に膾炙する、
シュインチョー スリーズリー、
ナーハンチョー ナーハイバイ、
クニンダンチョー クンクルバーシェー、
の如きは、いつ頃誰が言ひ出したかは知れないが、実に能く往時に於ける首里、那覇、久米、三団体の性質を批評したものと思ふ。
成程この三団体の性質をその道を歩く時に能くあわはれてゐる。首里人は一緒に(スリーズリー)歩く、久米村人は推し合つて(クンクルバーシェー)で歩く、那覇人は離れゞで(ナーハイバイ)で歩く。そしてこの性質が万事に現はれてゐる。今もし社会学者があつて、この三社会を研究するとしても、これ以上の結論を与へるとは出来ない。ことにこの俚諺はアリタレーション(頭韻法)になつてゐて、誠に記憶し易い。
誠にこの三社会を歴史的に観察してみると、今日の首里が出来上つたのは今から三百七八十年前で、尚眞王(オギヤカモイ)が三山の諸按司に首里在住を命じた頃である。もとゝ性質の異なつた三種の民を打つて一丸となるのであつたから、最初の間は容易に調和すべきも見えなかつたが、首里王府の社会化の宜しきを得たこと外来の勢力の壓迫(あっぱく)とによつて、尚家を中心として歩調を合せて進むの必要を感じ、いつしか政治的人民となり了つたのである。此政治的意識は遺伝的に今日に伝はり、昔の城下は荒れ果てゝも、首里人士はまだこのスリーズリーの社会性を失はないで常に県下を一縄●にせうと●る傾向を有つてゐる。
那覇の出来具合は首里のとは全く別物である。那覇はもと此処からも一人彼処からも一人といふ塩梅式に、種々雑多の人間の寄り合つて出来た所で、何等中心のあるでもなく、非政治的人民の寄合所として今日に至つた。孫子が難民の集まる所は其民軽くして用ふ可からずといつた言葉は假りて以て古今の那覇人を形容することが出来る。誰れが何と言つても那覇人は今なほナーハイバイである。那覇人が各字といふ狭い考へを棄てゝ那覇全体といふことを意識するまでは可なり長い年月を要することであらう。さういふ域に到達せない内は、那覇人は到底県の有力なる分子になれないのである。
久米は今日ほ殆ど那覇に同化したものゝも、もと那覇とは著しく性質の異なつた所である。久米はもと明国の植民地であつた。この植民地人は五百六十年前始めてこの●に来た頃には、まだ一個の団体を形成してゐなかつたが、一適の油が水中に這入つゝ丸くなるやうに、その群の一体●別社会の真中に這入つて、急に一種の社会性を発生し、相違なる社会の裏に戴然特立の一社会を形成して、直ちに一機関に充てられ、一制度に充てられた。しかも彼等の状態は久しくクンクルバーシェーであつた。すなはち歩調は合はないけれども、兎に角角錐し合つて進んでゐた。それでもナーハイバイよりはましであつた。
つらゝ県下の現状を見ると、まだナーハイバイ(離れゝ)の状態である。何れ近き将来にクンクルバーシェー(推し合い)の状態を経てスリーズリー(歩調の揃ふ)状態へ進むに相違ない。その時に至つて本県は漸く他府県と歩調を合わせて進むことが出来るのである。如何なる社会も一足飛に安全なる社会になるとは出来ない。もしさういふ(そういう)ことがあつたら却つて不健全である。兎に角経過すべき所は経過せなければならぬ。
(明治四十ニ年二月一日 稿、沖縄毎日新聞所載)
古人の語や過不及や無いらぬ(ムカシンチュのコトバやアマリノコリやナいらぬ)
【関連項目】
・琉球藩職分総計より、ブログ主編集分を抜粋。現代の労働人口調査みたいなものです。注目は那覇で、琉球藩の時代には西、東、泉崎、若狭町の4区分しかなかったことです。
・沖縄県地誌略 出版年明治18年(1885)、著者 沖縄師範学校編より抜粋。
那覇ハ中頭ノ西南端ニアリ。東ハ真和志間切ヲ夾ミテ、首里ニ対シ、南ハ港湾ヲ隔テ、豊見城小禄ニ間切ニ対シ。西南二方ハ海ニ枕ム。地勢平坦ナリ。分チテ西村、東村、久米村、泉崎村、若狭町村、泊村ノ六箇所トス。戸数五千九百五十餘ニシテ。人口弐万四千三百十餘アリ。
・沖縄県管内全図 出版年明治39年(1906)、著者 沖縄県。往年の首里市と那覇市の地図が掲載されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089186
・沖縄独立運動の影に琉球王国復活をもくろむ?!あの勢力
http://okinawamondai.com/okinawadokuritsu/dokuritsu/