今回はブログ主が確認した限りですが、おそらく歴史上初の女子に対する選抜入試試験の内容を紹介します。
琉球・沖縄の歴史において女子が小学校へ入学したのは明治18(1885)年ですが、それから11年後の明治29(1896)年に女子講習科(速成の女子教員養成学校)の選抜入試試験が行われます。その内容が非常に興味深いので今回ブログで公開します。
入学試験問題
同校女子講習科は本誌前号に於て予め報じたるが如く、今四月廿日より入学試験を施行せられ、入学志願者十七名中より及第者十名あり、其の試験問題は即ち左の如し
購読科
- 小督の局は高倉院の宮人にて中納言重範卿の女なり世には箏の上手とて持て囃されけり此の人殊に慈愛の心深くて猜み心などは露ばかりもなかりければ宮仕への間にも朋輩に情けをかくること深く何事も他人を先にして己を後にし目下の人の過ちなどは我身に引き受けて救ひ助くること度々にて其心眞に人に優れきといふ局の如きは友垣のかゞみといふべし
- 柔順 貞淑 家庭の教養
- 金剛石も磨かずば玉の光はそはざらむ
- 千島の奥も沖縄も八洲のうちのまもりなり
歴史科
- 神武天皇御即位ハ今日ヨリ幾年ノ昔ナリヤ、
- 三韓ガ我カ邦ニ藩附セシ由来ヲ記セ、
- 和気清磨、菅原道眞二公ノ中ニ就テ其事跡ヲ略記セヨ、
- 紫式部ノ小傳ヲ述ベヨ、
作文科
- 父母に孝(普通漢字交り文)
- 書籍の購求を人に依頼する文(日用消息文)
地理科
- 我ガ邦ニ在ル高山五箇、大河五箇、名高キ港七箇ヲ挙ゲヨ、
- 沖縄縣ニ於テ各區郡ノ名高キ産物ヲ挙ゲヨ、
珠算科
- 三箇七分五厘ヲ一分二厘五毛ニテ割リタル高ヲ求メヨ
- 五千七百六拾九圓ニ七分五厘ヲ掛ケタル積ヲ示セ
- 壹反ヨリ七挺ノ砂糖ヲ得ベシトセバ長サ四十間巾三十五間ノ田地ヨリハ幾挺得ベキカ
- 三二六十ノ二ト云ヘル除算九々ノ理由ヲ述ヘヨ
筆算科
- 壹升三十銭ノ酒六斗ト壹升廿五銭ノ酒四斗ヲ混合シテ賣却シ金九拾五銭ヲ利セントス壹升ヲ何程二賣リテ可ナルカ
- 凡テ整数ノ単位偶数ナルトキハ其数ハ二ニテ整シ得ベシ其證ヲ問フ
- 789ニテ6725872ヲ割リテ得ル所ノ商及ビ残餘ヲ記セ
- 父子ノ年齢ノ和ハ五十六歳ニシテ父ハ子ノ三倍ナリト父子ノ年齢各如何
習字科
- 富貴功名立身出世
上記の入学試験は昭和62(1987)年刊行の『ひめゆりー女師・一高女沿革誌ー』からの抜粋です。ブログ主の興味を引いたのは算数の問題の割合が多いことです。しかも単なる算術ではなく、「父子ノ年齢ノ和ハ…」の問題のように方程式も含むレベルの高い内容も出題されています。当時の試験結果の資料はまだ見つかっていませんが、おそらく当時の受験生が最も苦戦したのが算数の問題だったかもしれません。ためしに下記の資料をご参考下さい。
高等女学校(明治33年7月3日、琉球新報)
沖縄高等女学校入学志願者二十三名の内及第したる者は二十名にして其原籍及び姓名は左の如し。(中略)右の内高等小学校を卒業したるものは砂辺カメ(首里区出身)一人にして他は高等三年以下なり試験の成跡は算術は最も不良なりと云ふ。
*師範学校女子部創立と同時に入学し、大正3(1914)年に卒業した平良カナは「机がへこむほど勉強した。……師範学校の学科は女子も男子も同じで難しかった。物理化学も男子と同じ教科であったが、先生によっては、女子は炊事洗濯が出来ればよいという考えから方程式は教えてもらえなかった」と語っている。40人入学した中で卒業したのは23人であったとう。17人がどのような理由で卒業できなかったかは定かではないが、「数学のできないものは英語の授業を受けさせなかった。その人たちは英語の時間のときも隣の教室で数学をやった。そして、半年おくれて、本科正教員ではなく、尋常科正教員として卒業した。」当時「本科正教員で成績が八番までの人は月給14円、9番以下の人は13円、尋常科はもっと下」だったそうだから、勉強もかなりきびしかったと思われる(平良カナ談、1979)
明治29(1896)年に女子講習科が創設された理由は、沖縄県内において女子生徒の就学者数が増加し、女子教員の増員が切実な問題になってきたからです。明治17(1884)年においては「就学年齢の者三万人の内十七人に過ぎざりし」が明治33(1900)年には「就学年齢百人につき三十三人の割までに進歩」と激増しているのです。本土から女子教員のリクルートに非常な困難を生じた時代ですから、女子講習科はナイスタイミングで創立されたと言ってもいいでしょう。
その際に入学した第一期生10名は、どうやら2年の講習期間を経て無事全員卒業したようです。卒業生は規則により6ヵ年は小学校の教員として勤務しなければなりませんでした。卒業生の名簿は確認できましたので下記に掲載します。
女子講習科卒業生
佐村志げ子(熊本県)、竹内たね子(本県那覇)、佐村あい子(熊本県)、長友せつ子(宮崎県)、片岸うめ子(奈良県)、高山その子(佐賀県)、久場つる子(本県首里)、三宅やへ子(本県那覇)、伊勢よう子(長崎県)、橋口しづ子(本県首里)
卒業生で総代を勤め上げたのは佐村志げ子さん、『沖縄県政五十年』にもこの名簿順で掲載されているので、もしかすると佐村さんを筆頭に成績優秀順の席次かもしれません。この中にブログ主が琉球・沖縄の歴史で最も偉大な女性だと断言してはばからない久場つる子さん(首里出身)がいます。彼女の業績の詳細ではここでは記しませんが、上記の卒業生10人が先駆者となって、その後の本県女性の教育が軌道に乗ったといっても過言ではありません。にもかかわらず現代の沖縄通史においてはその名前を記載している書籍を探すのが難しい状態なのは、真に残念といわざるを得ません。(終わり)
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