たしか先週の日曜日(4月16日)と記憶していますが、テレビで名護の小学校に於いて「聖諭六言」が道徳科目として利用されているとの特集が放映されていました。正確には名護親方こと程順則が清国から持ち帰った解説書(いわゆる六諭衍義)を利用しているのですが、では「聖諭六言」とはどのような内容か下記参照下さい。
父母に孝順なれ(孝順父母)
長上を尊敬せよ(尊敬長上)
郷里に和睦せよ(和睦郷里)
子孫を教訓せよ(教訓子孫)
おのおの生理に安んぜよ(各安生理)
非為を為すこと勿れ(毋作非為)
これらの内容は、現在でも道徳科目として通用する立派な文言ですが、では1397年に聖諭六言を発布した明の光武帝朱元璋とはどのような人物か、これまた下記をご参照ください。
先ず明の太祖光武帝の「聖諭六言」即ち「六諭」。
明の太祖朱元璋(光武帝)は、大英雄であったが臣下を殺すのが大好きであった。
大宰相胡惟庸は、権を恣にしたと言う理由で殺された。連座する者五万人。
朱元璋は矢鱈と臣下を殺すのだが、殺す単位が何時も五万人。
斯の五万人説が此処から由来するか如何か知らないが、要人虐殺に於いてはスターリン以上であった。
文化大革命時に於ける一千万人虐殺に比べれば未だ少ない、何て謂い給う事勿れ。
少しでも気に入らないヤツは直ぐ殺す。あんまり殺したので、光武帝の末年には建国の功臣は、綺麗さっぱりと居なくなった。これが「靖難の役」に於いて、明の二代建文帝が燕王朱棣に攻め滅ぼされた理由だと論ずる学者も多いが、これは後の話である。
太祖朱元璋は、法律を簡潔に、厳しくした。特に有名なのが「剝皮」の刑の制定。汚職などの怪しからん事をした役人は、皮を剝ぐ。剝いだ皮は襟巻にしないで、役所に飾って置く。これを見て、生きた役人は震え上がって縮み上がる。戒めとなる。
(中略)太祖朱元璋は、それだけでは政治の為に十分でなく、民を諭し、教科する必要をも感じた。右の目的の為に下されたのが、「聖諭六言」略して「六諭」である。
上記の一説は小室直樹博士の著書『天皇畏るべし』からの抜粋です。小室博士独特の言い回しの影響か多少大げさにも思えますが、これらの所業が本当の事だから驚きです。実際に「朱元璋」で検索すると血なまぐさいエピソードがわんさと確認されて気分が悪くなります。
そんな「聖諭六言」が中国全土に普及したのは明末の時代に、地方自治体の崩壊の危機の中で地方のコミュイティの再構築のために採用され、清の時代にそのまま定着したという面白いいきさつがあります。その中で六言の解説書(いわゆる衍義)が多数作られて、それを知った名護親方(程順則)が琉球に持ち帰ったという経緯があります。
聖諭六言の内容は儒教の内容にそった家族道徳観念で、実に簡潔にまとめられた名文です。ただし発布した張本人があまりにも血なまぐさい人生を送ったため「お前が言うな」との誹りを免れることができません。そこでブログ主は琉球・沖縄の歴史においても君主(国王)が臣下に訓諭を発布したかをチェックしたところ、一つありましたので紹介します。安政6年(1859)に起こった王府の内紛(牧志・恩河事件)後に国王尚泰から臣下へ訓諭を令達する形式になっています。
~ここからはブログ主の(大雑把な)意訳です。元ネタは喜舎場朝賢の『東汀随筆』から抜粋です~
政治の問題はあらゆる事項にわたり、決済項目が多いので、臣下の輔佐が必要不可欠であります。ところが近年、邪な臣下によって政治が混乱して人心が穏やかではないと聞き、私(国王尚泰)は実に心を痛めています。そこで心中を吐露して下記の六項目を令達します。
- 国人(ここでは役職についた士のこと)は(尚家に)代々使えてきた臣下である。それゆえに己の責務を果たして忠誠を尽くしましょう。とくに重臣は世の人たちの模範となるべきゆえに私心なく公務を弁ずべきであります。
- 学問はあくまで身を修めるために習得するものであって、習得した学問は実行に移して、さらに有用の学問を講習するのがベストです。名声を高めるために学問をするのはもってのほかです。
- 贅沢は一家のためにならないばかりか社会風俗をも乱します。倹約を旨とし、やたら酒宴を開いて楽しむことはしてはいけません。
- 人(ここでは士、あるいはそれに順ずる階級)の出世はその人の才によるもので、常に身を正しくしていたずらに権勢に媚びて出世を試みてはいけません。
- よからぬ流言を流して国政を批判し、あるいは官民を誹るような行為を(士族は)行ってはいけません。くれぐれも上記の行為は行ってはいけません。
- 農民は国の基礎である。慈愛の精神を以て接して百姓が農業に勤めよう監督しましょう。近頃百姓の疲弊が著しいと聞き私は大変胸を痛めています。(間切や村を領有する)臣士は民事を第一と心得て百姓の負担軽減に努めましょう。それが私に対する最大の忠誠であります。
以上の六項目の趣旨を上は大臣から下は庶士まで遵守して、国家安泰人民安寧を目指すことで私(国王尚泰)の意向を全うするよう請い願う所存であります。
上記の項目は「聖諭六言」の家族道徳とは違って、国王が政務に携わる臣下(士族およびそれに順ずる階級)への勤務態度に対する訓戒になります。現代社会でも通用しそうな立派な文言が並んでいるのですが、ではなぜ国王尚泰の訓諭が現在の琉球・沖縄の歴史で忘れられた存在になったかは後日紹介するとして、地元産の立派な訓諭が存在しているので沖縄県庁および各地方自治体の役所で採用するのはいかがでしょうか。そうすれば不正を働くお役人さんが減少するかもしれません。(終わり)
参照 喜舎場朝賢著『東汀随筆』第二面廿三より原文を抜粋しました。読み取りができなかった部分は●で処理しています。
尚泰王十二年巳未(安政六)小禄恩河牧志罪を得て各処分を行われしとき、国中に論達を発せられし。
其文に曰く「政事は日に萬機にして偏に諸臣士の賛翼を頼めしに、近年邪臣ありて人心之が為めに揺動疑惑いたし国中安穏ならずと聞き、寡人(尚泰のこと)実に心を痛ましむるに因り緎黙するに忍びず、心肝を吐露して以て論達すること左の如し。
一に曰く、国人は貴となく賎となく皆累世の臣なり。宜しく竭心●力して輔弼すべし。中に就て重臣は人民の俱に瞻仰するときは其行ふ所の善不善に因り風俗美となり悪となり国家安きと為り危き為り関する所軽少なからず。宜しく各端正謹慎にして法度を尊び守りて忽ふすべからず。
ニに曰く、学問は身を修むるの要とす、宜しく経博を本として身を敬しみ行を励げまし、更に有用の文芸を講習し、而して名利の学を好むべからず。
三に曰く、繁華は只一家の無益のみならず亦風俗の妨げと為る、宜しく節倹を敬み守り猥に酒宴遊興を為すべからず。
四に曰く、人の栄悴窮通は品行の蔵否に関するなり、宜しく義理に循り正直を秉り権要に匿れ近付つきて立身を好むべからず。
五に曰く、匿名の投書を作為して政法を議論し、或は人を誹る者は端士の所為にあらず、宜しく是等の邪辟陰法を為すべからず、
六に曰く、農民は国の本とす、宜しく之を慈愛安橅して之を勧奨誘棭して以て農事を振勵すべし、然るに近年大率忽●を為し、或は百姓の疲弊困窮を致さしむ、我れ之を聞き最情を傷ましむ。凡そ采地を有するの臣士及び民事を掌さとる、諸有司宜しく精勵勤動して、而して百姓の疾苦を救医すべし。是れ則ち最上の輔佐たるべし。
以上六条の旨趣は大臣より下士に至る迄宜しく服膺素行し、淳厚の風を振ひ興し人民をして各業を安し以て我が望む所の素意を副ふべし。