
のたとえのとおりしりょぶんめつのないものが刃ものを持つと危険このうえない。勝連村の松島料亭街を凶器を持って襲った暴力団員たちも思慮の全くない一種のきちがいというべきで、あのような惨事をひきおこした(下略)
現代基準では物騒なNGワードがいきなり飛び出して、いったいなんのことやらと思われる読者もいらっしゃるかと思われますが、この一節は昭和40年(1965)4月21日付琉球新報朝刊1面の「金口木舌」からの引用です。
そして「勝連村の松島料亭を凶器で云々」とは、いまからちょうど60年前の昭和40年4月16日午前1時ごろに起こった殺傷事件のことで、
・死傷者1名
・負傷者2名
・乗用車が1台大破
との悲惨極まりない結果、しかも犠牲者・加害者共に未成年であったため、当時の社会に大きな衝撃を与えました。
この事件については、できる限りの史料を集めましたが、報道内容が錯綜していましたので、ブログ主なりに整理してみました。沖縄ヤクザネタが好きな読者の皆さん、是非ご参照ください。
・事件が起こったのは昭和40年4月16日午前1時45分ごろ、場所は勝連村南風原(当時)松島料亭街で、地元の不良青年7~8人が同バー組合事務所に襲いかかり、逃げ遅れた未成年男性(19)が刺殺され、バー経営者の男性と未成年男性(18)が約1カ月の重傷、そしてバー街の経営者の車1台を大破して逃走。
・動機は、地元少年グループが仲間の自宅で酒を飲んでいる時に、「(仲間の)Sくんが本部派(山原派のこと)に連れて行かれて袋叩きにされている」との報が入り、グループ全員で日本刀やナタを持ち出し、車で松島料亭街に移動。
・ただし、そのときは自警団の一員がSくんを救出したあとだったので、グループはいったん引き上げ。
・ただし腹の虫がおさまらないので、(松島料亭街)近くの丘に上がって本部派の動きを見張ことに。
・午前1時ごろ、7人のグループと自警団8人が料亭街から出てくるのが見えたので、これを本部派と思い急襲。
・さんざん暴れまくったあとに、「人違い」であることに気が付いて、そのまま逃走。刺された未成年君は死亡。
・事件発生から2日の18日、未成年君を刺し殺した容疑者が那覇市寄宮で捕まり、これで事件に関わった人物はほぼ検挙された。
になります。
ちなみに、この事件は昭和39年(1964)7月から顕在化し、翌2月の吉原の事件で本格派した泡瀬派と山原派の抗争に絡んだ案件との認識が一般的です。「犯罪実話物語 沖縄警察50年の流れ」の著書、比嘉清哲さんも同じ見方ですが、ブログ主が史料をチェックした限り、抗争事件とは別次元の問題のように思えます。
たしかにこの一件に山原派は絡んでますが、キーワードは「自警団」と「刃物」です。(続く)