「おもろさうし」から見た勝連の実力(五)

前回の記事において、「勝連は、何にか譬へる(以下略)」は祭式オモロであった可能性について言及しましたが、今回はこのオモロを唱えた人物について考察します。ちなみに「おもろさうし」では題字と唄(オモロ)の関連性が謎めいており、「なぜこのオモロにこんな題字がついたのだろう」と思わざるを得ないオモロが多数ありますが、そのあたりの限界を考慮した上で、「作者」について考察します。

巻十六に掲載されている勝連のオモロで、男性詩人が唱えたと思われるオモロは2つあります。一つが「命上がりが節(巻十六の二)」、そして「阿嘉の子がよくも又もが節(巻十六の一八)」です。「命上がりが節」の作者は巻八に登場する「おもろ音上かり」で間違いありませんが、もうひとつのオモロは題字から「あかのこ(阿嘉の老就)」の可能性が否定できません。

となると、「あかのこ」のオモロをすべてチェックする必要が出てきます。まず彼のプロフィールは鳥越先生の説明をご参照ください。

これに対して「阿嘉の老就」は、その名として付けた「阿嘉」は読谷村楚辺の小字名で、対語の「禰覇」も同じである。尚清王(第四代)の御代における三司官であったといわれている。三司官とは王府における最上位の官職である。巻八では「あかのおゑつき」または「あかのこ」と表記されているが、一四の四四では「あかいんおゑつき」〔阿嘉犬老就〕とあって、「犬」という名が入っている。これは彼の〔犬樽金〕の名に負うものであり、その略として一〇の三二では「あかんおゑつき」〔阿嘉犬老就〕と見える。この老就という用語は巻五の三六の「さばちこ詩人」にも用いられており、古老という意である。そしてさらに五の四一では「あかんこ」〔阿嘉犬子〕とも表記されているが、この「子」は人を親しんで呼ぶ意の接尾語である。

自ら「老就」と称したためか、三十一才で王位についた尚清王を「若てだ」、すなわち年若い国王と呼びかけた作品をいくつか見ることができる。

つまり、あかのこは通説の阿麻和利から約一世紀後の人物であることが分かります。そして興味深いことに、彼は宮廷詩人であり、かつ三司官という政治の要職にも携わっていたのであり、それはつまり16世紀の首里王府では政治と祭式は一体であった傍証でもあります。

ちなみにあかのこが唱えたオモロは古代社会の成熟を伺わせる内容が散見され、彼が16世紀を生きた人物であることが実感できます。つまり「勝連は…」のオモロが題字通り阿嘉の老就が唱えたのであれば、それは15世紀の勝連とは無関係ということになります。

参考までに「やまとの、かまくらに、たとゑる(大和の鎌倉に譬える)」との表現にも触れておきますが、伊波先生の「おもろ双紙中にはしばしばきやかまくら(京鎌倉)という言葉が出ているが、当時昔の京都と鎌倉の関係が沖縄の都鄙(とひ)に知れ渡っていた者と思われる。」との記述はちょっと無理があると思われます。というのも仏教に触れた者であれば、日本の都が「京・鎌倉」であることは知っていたでしょうが、

15世紀の勝連には仏教施設がありません。

いかがでしょうか。ここまでの考察をまとめると、

・かつれんわ、なおにきや(勝連は、何にか…)の唄は祭式オモロである。

・オモロに登場するかつれん(勝連)は勝連城跡を中心とした狭い領域のことであり、勝連半島全体のことではない。

・このオモロを唱えた人物は、首里と関わりがあり、仏教文化に触れたことがある。

・そして首里王府はかつれん(勝連)を極めて重視していた。

になりましょうか。何れにせよ15世紀の阿麻和利とは関わりがないことは明白なので、このオモロが勝連の繁栄を謳ったものではないことを理解していただくと幸いです。