昭和の沖縄ヤクザの “弱点”

3年ほど前、ブログ主は山口組がなぜ沖縄進出に失敗したかについての考察記事をアップしましたが、今回は「なぜ沖縄の組織は本土に進出しなかったか」について言及します。

というのも(ブログ主にとって)この問いに関する答えは簡単なので、記事にしなかっただけなのですが、巷の「沖縄ヤクザ通」でもよくわかっていない感があったので、今回記事にまとめてみました。読者の皆さん、是非ご参照ください。

アメリカ世から昭和にかけて沖縄のアシバー連中が本土に進出しなかった理由は2つあります。ひとつは単純に「行く理由がなかったから」ですが、それもそのはず復帰前後の反社は “県内” で十分やっていけるだけの経済力があったからです。そして2番目の理由が重要ですが、それは

標準語でコミュニケーションを取れなかった

からであり、実はこの点がアメリカ世から復帰前後にかけての沖縄ヤクザの “一大コンプレックス” だったのです。

ためしに『旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡 富永清・伝』の一節をご参照ください。

「沖縄の理事長、あんさんの言う通り、ホンマは拾うようなことをしたらあかんのやがのう。せやけど、ワシはここへ来るまで、上原の勇吉・秀吉兄弟と会うてきたんじゃ。そしたらな、兄弟揃って言葉が通じんのや。ヤツらは沖縄言葉しか喋れん。沖縄以外の所で生活していくのは大変やと思うで。カタギになる言うんなら、あれらをそっとしておいて欲しいんや。カタギやのうて、また極道やりたい言うんであれば、旭琉会へ戻してくれへんか」

『旭龍 沖縄ヤクザ統一への軌跡 富永清・伝』349~350㌻

ブログ主がチェックした限り、同著には不正確な記述が一部ありますが、この件は自信を持って「本当のことだ」と言えます。ちなみにこの話は昭和58年(1983)6月以降、大阪で竹中正久(山口組若頭)と富永清(三代目旭琉会理事長)とのやり取りですが、昭和を生きた沖縄県民なら「ヤツらは沖縄言葉しか喋れん。沖縄以外の所で生活していくのは大変やと思うで。」の一節の意味は(痛いほど)理解できると思います。

平成以降の沖縄県民であれば、他府県民とのコミュニケーションに不自由を覚えませんし、実際にブログ主は本土においても「ウチナー訛の標準語」で普通に会話をして、劣等感を覚えたことはありません。ところが昭和の時代はそうではなかったのです。つまり、

(言葉遣いで)他府県人に劣等感を抱えた状態で、どうして他県に進出できますか

というわけであり、やはり(ブログ主を除く)現代のヤクザウォッチャーは昭和の沖縄の “事情” に疎いところがあるなと思わざるを得ません。

余談ですが、復帰前後に山口組が沖縄に進出できなかった理由の一つとして、又吉世喜(沖縄連合旭琉会理事長)を口説き落とせなかった点を指摘したことありますが、その理由の一つが「言葉」です。又吉が標準語のでコミュニケーションが苦手だったのは間違いなく、彼が冝保俊夫さんのように標準語ペラペラであれば、沖縄ヤクザの歴史も変わっていたかもしれないと思いつつ、今回の記事を終えます。

【関連リンク】

山口組の失敗

富永清さんと回状