「おもろさうし」から見た勝連の実力(四)

前回の記事において、ブログ主は「勝連は、何にか譬へる(以下略)」の有名なオモロは、祭式オモロであると仮定しました。

ここで祭式オモロについて定義すると、過去に神託として下されたオモロがテンプレ化され、後世の祭儀に用いられるようになった類のものであり、「おもろさうし」には巻三「きこゑ大ぎみがなしおもろ御さうし」に集録されている64のオモロの、実に32首が祭式歌謡として用いられています。

祭式歌謡については鳥越憲三郎先生の解説をご参照ください。

巻一のオモロが重複して集録されている数は、巻三の総数64の半数にあたる32のオモロである。このことは、初め神託として下されたオモロが、後に祭式用の歌謡として利用されていたことを示すものである。神託は一時的・即興的なものであるが、その中のいくつかは祭式歌謡として恒常的に用いられたということは注意してよいことであろう。巻三にかくも多く巻一のオモロが重複して載せてあるということは、約一世紀の間、それらのオモロは宮廷の祭式歌謡として用いられていた事実を証明するものである。

なお、巻三は尚清王以降の2~4代の聞得大君(峯間のきこゑ大君、真和志のきこゑ大君、きこゑ大君)が集録されており、首里においては(過去に)神託として下されたオモロがテンプレ化し祭式歌謡として恒常的に用いられていたわけですが、このあたりの事情はおそらく地方でも同じであり、「勝連は、何にか譬へのオモロも同様の類であると考えられます。つまり

一 勝連は、何にか譬へる。大和の鎌倉に譬へる。

又 肝高は、何にか、(一節二行目「たとゑる」以下折返)

又 ●●●●

又 ●●●●

のように、3節以降もなにかオモロがあって、それらがカットされたものが後世に伝わったのです。なお、ブログ主が案ずるに巻16に集録されているオモロから、それはおそらく勝連城主を讃える内容であり、意訳すると

勝連は、何にか譬へられるのか。大和の鎌倉に譬えられる。(城を統べる)名高き阿麻和利の長寿を祝してマンセーマンセー

といった感じの神託だったのかもしれません。

では3節以降がカットされた理由ですが、これは16世紀初頭に各地の按司を中央(首里)に集居させた件と関係があります。古代社会において按司の重要な役割は祭儀などの年中行事を滞りなく行うことです。それはつまり、本来は按司が行なうべき地方の祭儀の代役として中央から高級女神官(三十三君)や宮廷詩人(男性)が派遣され、彼女らが地方に伝わるオモロを定型化し、祭儀の際に用いたと考えられます。

それ故にこのオモロに登場する勝連は、あくまで城(グスィク)のことであり、伊波先生が唱えるような勝連半島の繁栄を讃えた内容ではありません。伊波先生の解釈が “一人歩き” した感が極めて強いのですが、「おもろさうし」の通読、特に巻八「首里天きやすへあんじおそいがなし おもろねやがりあかいんこが おもろ御さうし」と照らし合わせて読むと、(伊波先生が想定する英雄)阿麻和利が統治する勝連とは無関係であることが伺えます。

そうなると、このオモロがいつ作成されたが気になるところですが、次回は阿嘉の老就(あかのこ)について触れつつ設立年代について考察します。

【補足】巻16の15の浦襲節も祭式オモロの可能性があるので、参考までに載せておきます。

(一六ノ一五) おらおそいふし

一 かつれんの、あまわり、きこゑ、あまわりや、ぢやくにの、とよみ

又 きむたかの、あまわり

(一六ノ一五) 浦襲節

一 勝連の阿麻和利、聞え阿麻和利や、大国の響み。

又 肝高の阿麻和利、(一節二行目から折返)

【解釈】①② 誇り高き勝連城の阿麻和利(人名)、名高い阿麻和利よ、わが国におけるほまれだ。

【説明】城主の阿麻和利を讃えたものである。「ぢゃぐに」〔大国〕は琉球国の美称で、「わが国」と訳してよい。