前回は「おもろさうし」から中城の国力について言及しましたが、今回は極めて興味深いオモロが掲載されている越来について言及します。実は越来のオモロは中城と違い “王者” を連想させる語句が使われているのが特徴です。
一例として城主の聖名によのぬし〔jununuusi:ユヌヌゥシ〕が用いられていますが、この「世の主」は後に国王を刺す用語になります。他にも「鷲の峰」「鷹坂」など王を象徴する動物(猛禽類)が登場したり、中城とは異なる力強いオモロが集録されていますが、それはつまり古代社会において次期国王は中城ではなく、越来を領地にしていた傍証なのかもしれません。
それは置いといて、越来にはひとつだけ異様なオモロがあります。意訳すると「我が持つ並外れて大きな刀で相手をたっくるしてやる」という勇ましいオモロですが、全文は以下ご参照ください。
(二ノ四二)あんのつのけたちてたやれはかふし
一 あんの、つのけたち、あんの、おやけ、たち、こゑくの、てた、たるてす、きちやれ
又 けおのよかるひに、けおのきやかるひに
又 たう〱は、はちへ、ひら〱は、はうて、
(二ノ四二)吾の図抜け太刀てだなればが節
一 吾の図抜け太刀、吾の親気太刀。越来のてだ、誰とてし来たれ。
又 今日の良かる日に、今日の佳かる日に、(一節三行目から折返、以下同じ)
又 道々は走って、平々は這うて、
【解釈】①わが持つ並はずれて大きな刀。われは越来の城主だ。誰とても、やって来い。②今日というめでたい日に、……③平たい道々では走って行き、坂々では這い進んで、……
上記オモロの際立った点は城主が自ら唱えたオモロ、これに尽きます。古代社会のお約束として戦いには神の参加が必要不可欠であり、女神官(あるいは詩人)を通じて城主を含む戦士たちに霊力を供給するのが通例です。城主自らがオモロを唱えるのは極めて珍しいケースであり、それはつまり「神と同質な存在」としての自信にあふれた宣言であると言えます。
想像力を逞しくすれば、このオモロは古代社会において越来城主は(首里を除く)全城主の中でも異質な存在として看做された傍証かもしれません。
参考までに鳥越先生の説明をご参照ください。
本歌は越来城主が戦場へ赴くにあたり、みずからの太刀の立派さを讃え、さぁ誰であろうと攻めて来い、この大きな太刀で斬り伏せて見せるぞ、と自負したものである。しかし本歌をただの自負的表現であるとのみ見てはいけない。宗教観念が基底をなしている社会にあっては、戦場へ向けて出陣するにあたり、城主みずからがかく言挙げすることは、戦場においてそのように実現し、武勇を示すことができるものと信じられていたのである。こうしたところにオモロの宗教性が存じているわけである。
古代社会における城主は、支配地域の住民から神の末裔と看做され、かつそのように振る舞うことが要求されており、その点は越来も勝連も同じですが、ただし勝連のオモロからは越来のような力強さは全くなく、
首里と仲良し
との内容のオモロが目立ちます。それはつまり勝連は中央に対して反乱を起こすだけの実力がなかった裏返しと言えます。
次回は「勝連は何に例える」から始まる有名なオモロについてブログ主なりに考察します。