阿麻和利考(六)

△屋良村の百姓の子は遂に王の妹を妻にすることが出來た。例の由來傳は記して曰く

是れより阿摩和利、身儀賓の首に居て、彌(いよいよ)逆威を振ふて、常に諸按司を見ること草芥の如く、驕り傲ること甚暴にして、卽(すで)に君位を奪ふの志あり

それ或は然らん。尚巴志沒して十有餘年、首里王府中またこの小王國を經營するの政治家なく、三山の遺氏は再び乱を思ふの有樣であつた(未來の伊平屋王金丸は漸く四十歲近くになつて居たが、まだ無名の小官吏であつた)。かつて茂知附氏の手より半島の民を救ふた阿摩和利は、またアルモノを考へ始めたのである。このアルモノを考へるということは「天下者天下之天下也非一人之天下」と斷言せし中山世鑑を有する琉球ではさほど罪ある考へでもなかつた。思ふに當時の諸按司は常に勝連按司の鼻息を伺うつてゐたのであらう。而して百浦添(もんだすい)に會議の開かるる毎に阿摩和利が議長のやうな觀を呈したのであらう。實に彼はオモロに所謂「按司の又の按司」であつたのだ。

△讀者もし勝連のおもろ双紙を繙(ひもと)かば思半ばに渦ぐることがあらう。

かつれんは なおにぎやたとへる

やまとかまくらにたとへる

きむたかは なおにぎや

勝連は何にかマア譬へむ、日本にての鎌倉に譬へむ。アハレ俊(すぐ)れたる阿摩和利は何にかマア譬へんという程の意である。おもろ双紙中にはしば〱きやかまくら(京鎌倉)といふ〔ことば〕が出てゐるが、當時昔の京都と鎌倉との關係が沖繩の都鄙に知れわたつてゐた者と思はれる。阿摩和利は實に勝連城を鎌倉幕府の如き位地に進めようとしたのであらう。否その計畫を實行しつゝあつたのである。讀者ももし首里を以て京都に勝連半島を以て三浦半島に比較したならば、その位置及びその歷史の酷似せるに驚くであらう。阿摩和利はまさに小なる賴朝にならうとしてゐたのである。

△ところがこゝに彼の〔爲〕に少しく都合の惡いことがある。此は護佐丸毛國鼎が中城の嶮(けん)に據つてへ〔ず〕彼れの行動を監してゐるのである。毛氏元由來傳によれば

護佐丸公一人御娘御座候處、容顏美麗の上尤賢德に被罷在、尚泰久王被聞召遂に召されて王妃とし玉ふ。茲に因て護佐丸公の城は、王都遼遠音信疎く、殊に勝連按司阿麻和利權威を振ひ候に付、彼を防禦の爲め中城の城方を被賜、城廓造營遷居被仰付、中城按司江爲被封由候、護佐丸公御事尚巴志より尚泰久王まで五君に被奉仕、忠義廉直にして國中鎭守の職に被任一朝の大臣にて爲有御座由候

阿摩和利と等しく王家と姻戚の關係がある、又同由來傳によれば毛氏は巴志が佐敷以來の家臣ではなく、先の中山の名族で代々北山防禦の大任を帶びてゐたのであるが、護佐丸の時始めて巴志に仕へた者である。護佐丸が嘗つて座喜味城を築きし時の如き、大島喜界ヶ島邊からも人夫が來た位であつたが、後ち勝連との權衡を保つ爲に中城に移つて一人堅固な城を築くことゝなつた

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△その頃日本にかういふ城があつたかどうかは知らないが、沖繩に於てはこの中城式の城壘(假りにさう名づけておく)は、護佐丸以前即ち四百數十年にはまだ無かつたのである。これは護佐丸が獨創的に設計したのであるか、はた他から學んで設計したのであるか、とにかく究する必要がある。彼の日本に於て今日見るやうな封權時代の城は、葡萄牙人が來てから後に出來たといふ話もあるが、中城々の出來たのはパスコダガマの喜望峯廻航に先立つこと四五十年である。五十二年前米國の水師提督ペルリは、一日中城々址に遊んで南島の古英雄を〔弔〕ふたことがあるが、その設計に成りし古い城址を嘆賞して之を測量せしめたさうだ。その精密なる圖面はペルリ日記に載てゐる。世〔は〕忠臣としての護佐丸を知る〔者〕は多いが、

築城家

としての

護佐丸

を知る人は少い。(明治38年7月19日付琉球新報2面)