△阿摩和利はとにかく勝連の人民の意志によつて半島の主人になつたのである。然るに夏氏由來傳に
按司ある夜心の内に思ひけるは「吾れ新に立て按司となる。若し背くものやあらん」とて獨り密に城を出て村中を周流するに、一家に人多く集り酒を飮で樣々の事を物語しに古今の興廢を評論す。按司竊(ひそか)に其の内を窺ふに、一人聲をひそめて低語して曰く「阿麻和利加那、微賤の身を以て訛して按司となる(=誤って按司になるの意)。是れ不測の僥倖に非ずや」と云ひければ、皆打諾き手を打て大に笑ふ。按司之を聞て甚だ怒り大音擧げ逆言して「誰をか謗る」と云ひければ、一坐の人大に驚き地に拜伏して答ふべき言も無く、色を失ひ汗を流して居ける處に、其内一人の老翁言を飾て曰く「君の威名世に重し。路行く人も皆君の聖德を稱嘆す。吾等も深く仰ぎ慕ふこと誠に小兒の父母を望むが如し。故に屋良の阿麻和利今幸に吾が主上となり玉ふと恰も魚の水を得るが如しとぞいふ。逆言して君を謗るには非ず」と云ひければ、按司其巧言に欺〔か〕れ大に喜んで城中に歸る。是れより諸人聞傳へて阿麻和利と云ふ。
といへるものゝ如き夏氏を傳せしものゝ殊更に彼を毀(そむ)けんが爲に捏造した話ではないかと疑はれる。
△誠に勝連の人民の間に傳唱せられしオモロを引用して見よう。
かつれんのあまわりとひやくさちよわれ
きもたかのあまわり
かつれんとにせて
きもたかとにせて
勝連の阿摩和利、俊(すぐ)れたる阿摩和利、千年も此の勝連を治めよとの意である。又
かつれんのあまわりきこゑあまわりや
ぢやくにのとよみ
きもたかのあまわり
勝連の阿摩和利、名高き阿摩和利、俊れたる阿摩和利の名勢は此よき島國中に轟けりとの意である。かういふ類がまだある。煩(はん)を厭わずなほ二三首を列記して見よう。
一 かつれんのとよみてだ もゝうらのとよみてだ
きむたかのとよみてだ
かつれんのいちやくち
きむたかのかなやくち
上からはてるまはま
下からははまかはに
一 かつれんのあまわり たまみしやくありよな
きやかまくら これといちへとよま
きむたかのあまわり
しましりのみそてのあんじ
くにしりのみそあんじ
しよりおわるてだこす たまみしやくありよわれ
一 きこえおわもりぎや おれてあすびよわれば
かみしもの そかなするみ物
とよむおわもりぎや
けおのよかるひに
△實に勝連半島の民は小兒の慈母を慕ふが如く彼を慕ひ、路行く人もその聖德を嘆稱(たんしょう)した。此時に當つて阿摩和利なる名義は殆ど救世主のやうな意味に用ゐられた。大和言葉では天人降臨のことをアモリといふが、琉球の古語でもアマリまたはアマクダリと云ふ。「銘苅子」に此童の語を用ゐた所が三ヶ所ある。而もアマクダリは唯一個所句調を合さんが爲に用ゐられたばかり
あまりしち、我身や夢の間どやすが(天女ノ詞)
すだし母親や世界の人あらぬあまりしやる女あまくだりしやる女(銘苅子ノ詞)
あゝ銘苅子妻やあまりしやる女(天女ノ詞)
アマワリ、アマオリ、アマリは同語で名詞になつて天から降つた人の意となる。又稀にオワモリということもある。要之(つまり)アマリ加那は失敗した爲にアマンギヤナと呼ばるゝので其の当時〔は〕天降り加那で通つてゐたのであるとの說は田島氏の「阿摩和利加那といへる名義」を布衍したのである。(明治38年7月15日付琉球新報2面)