今回は、ももとふみあかり(百踏揚)シリーズの最終話として、現代にひろく伝わる彼女のイメージがどこで誕生したかについて言及します。実はその答えは簡単で、18世紀初頭に写本された「(おもろさうし)安仁屋本」において彼女は勝連と結び付けられたのです。
おもろ写本の経緯を説明すると、1709年の首里城火災の際に、「おもろさうし」の原本も消失しますが、具志川家に伝わる「具志川本」をもとに再編集が行われ、その際に誕生したのが「尚家本」と「安仁屋本」の2系統です。そして「安仁屋本」には「言葉間書」という注釈が付けられてますが、その中でももとふみあかり(百踏揚)と鬼大城による勝連城脱出ストーリーが紹介されているのです。
実際に、琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブで公開されている「おもろさうし(田島本)」をご参照ください。君がなし節(6の52)、君がなし節(6の53)のオモロに注釈が付けられているのが分かります。
せっかくなので鳥越憲三郎著「おもろさうし全釈」に掲載されている「言葉間書」もご参照ください。
(六ノ五二) 君がなしが節
一 百踏揚は、天地、揺めかして、天、鳴らして、差婦、助けわして、
又 君の踏揚は、(一節二行目から折返、以下同)
又 今日の良かる日に、
又 今日の佳かる日に、
【言葉間書】こゝに勝連おなぢゃら首里天の御女に而御座候処もゝとふみあかれの按司と神号御付めされたる由候、勝連按司逆心差起、首里へいくさ寄候企ニ付、鬼大城と申人おなぢゃらへ此段申上、則大城おなぢゃらを負上、夜中に首里へ逃走候を、勝連より打手の者炬灯を付わにやまと申浜追付可及大事之処、御神より此おもろ被下候付而、則大城大声にておもろ仕候処、俄黒くもおこり北方へは石あめほり炬火をきし候付、打手可及様無之候、南方へは明み申に付、大城は急に首里へ走登り大難のかりたる由也
【解釈】①②神なる百踏揚は、天と地をゆりうごかせて、空を鳴らして、託女の危難をお救いになられて、③④今日というめでたい日に、……
この話は有名なので、解説は不要かと思われますが、城から脱出した鬼大城とももとふみあかり(百踏揚)が、勝連からの追手に追いつめられた際に、彼女が神がかりして下されたオモロを鬼大城が大声で叫んだところ、突如大雨が降って追手をまくことに成功し、そのまま首里へ逃走したという内容です。
(六ノ五三) 君がなしが節
一 百踏揚は、降りて、遊び御座されれば、迎え誇らん。
又 君の踏揚は、(一節二行目から折返)
又 汝背の館身人が、御座されるとて知らんや。(一節三行目折返)
【言葉間書】鬼大城おなぢゃら負上、赤田御門へ参、勝連按司逆心之次第御取次申上候処、夜中に男女唯二人参候は御ふしんに候間、先は門開間敷由御返事御座候処、則御神此おもろ給候に付、則大城大声上おもろ仕候処、自然御門之鎖子はさら〱と開いたる由也。
【解釈】①②神なる百踏揚は、天から降りて神遊びしていらっしゃるので、国王は迎えてよろこぶべきである。③父なる国王がいらっしゃっても、やはりわからないのであろうか、いやそんなことはない。……
この間書も一読すれば大意は理解できると思われますので、説明は割愛しますが、ももとふみあかり(百踏揚)が登場するオモロそのものには「勝連」は登場することなく、言葉間書によって彼女が勝連と結びつけられていることを理解いただければ幸いです。
しかも興味深いのは「おもろさうし」の原本に最も近い存在の「尚家本」には「言葉間書」がありません(ブログ主は沖縄県立図書館のコピー本をチェックすることで確認しました)。つまり15世紀半ば(と思われる)出来事が、18世紀初頭の文献にいきなり登場したわけであり、その信ぴょう性はハッキリいって “お察し案件” と言っても過言ではありません。
だがしかし、いったん定着した「定説」はそう簡単には覆されることはありません。「羽地王子向象賢が始めて琉球の正史『中山世鑑』を編纂した時に、この大事件たる勝連の乱を記さなかつた所に深い意味の有ることを知らねばならぬ。(阿麻和利考)」と喝破したした偉大なる伊波普猷先生ですら、護佐丸・阿麻和利の乱を「史実」と捉えている有様です。つまり、
「~である」と「~であると書いてある」の区別が曖昧なまま阿麻和利とふみあかりのイメージが独り歩きしているのが現状なのです。
まぁ、愚痴はここまでにして、次回からは阿摩和利シリーズの〆として「阿麻和利の乱」についてブログ主なりに考察します。