阿麻和利の謎 – 肝高(2)

前回の記事にて、肝〔cimu:チム〕の原義について言及しました。「霊気」または「霊気が宿る」の意から転じて「心」になったのではと推測ましたが、ちなみに肝には「中心(もっとも重要な場所)」のニュアンスが含まれます。となると勝連城の中心はどこかについて考察する必要がありますが、その答えは現地を訪れたことですぐにわかりました。

勝連城の肝(もっとも重要な場所)はどこか、それは一の曲輪の「玉ノミウヂ御嶽」で間違いありません。実はおもろさうしに「玉の御内」に関するオモロが3首もあり、その中で最も印象的なオモロを紹介します。

(一六ノ七) こゑしのかふし

一 かつれんわ、てた、むかて、ちやう、あけて、またま、こかね、よりやう、たまのみうち

又 きむたかの、月むかて

又 かつれんわ、けさむ、みやも、あんし、えらふ

(一六ノ七) 声科が節

一 勝連は、てだ、向かって、門(ぢやう)、開けて、真玉、黄金、寄り合ふ玉の御内。

又 肝高の月、向かって、(一節二行目から折返)

又 勝連は、兆も今も、按司、選ぶ。(一節三行目から折返)

鳥越先生の解釈は、「①②心すぐれた勝連城は、太陽や月に向って、城門を開いて、美しい玉や黄金があつまってくる「城内」だ。③勝連は昔も今でも、よい城主を選んでいる。」ですが、この城内がまさに「玉ノミウヂ御嶽」であり、勝連城の祭祀において日神や月神が授ける霊力(美しい玉や黄金と表現されている)を真っ先に受け入れる場所なのです。

実は、この場所が最も重要であることは考古学的にも裏付けられています。現地の「一の曲輪の概要」によると「岩盤をけずって平坦にするなど大掛かりな土木工事を行い、瓦葺の建物があったことがわかっています。多くのグスクの中で瓦葺の建物があったのは、現在のところ勝連城のほかには首里城、浦添城だけです」と明記されているのです。そして一段下の二の曲輪の舎殿(政務を行う建物)には瓦は一部しか使われていなかったこともわかっています。

「玉ノミウヂ御嶽」の写真を紹介しますが、ブログ主が案ずるに建物はおそらく太陽の光を受け入れるよう、東向きに建てられていたはずです。

ブログ主が現地観察、そしておもろさうしをチェックした上で出した結論は、肝高とは「霊気が高く宿る場所」です。そして「勝連/肝高」の対語表現は「霊気が高く宿るかつれん(勝連)」と解釈でき、古りうきう時代の勝連城はりうきうにおける第一級の聖地であると確信しました。そしてそのことを証明するオモロが存在しますので、次回この点について言及します。

【追記】勝連城の一の曲輪にある「洞窟」は実は二の曲輪の舎殿の近くにあるウシヌジガマとつながっています。つまり勝連城の「玉ノミウヂ御嶽」での祭祀によって集められた「霊気」が二の曲輪の舎殿まで誘導できるようになっているのです。現代人から見ると、荒唐無稽な発想かもしれませんが、古代の勝連の人たちは本気で信じていた可能性あります。ちなみに舎殿はおもろさうしでは「真物寄せ」と表記され、文字通り「神(真物)を寄せ集める」の意味です。つまり古代社会においては、政治に神の力が必要不可欠だった証といえるかもしれません。