昭和のたくましいおばーたち – 偉人編

前に紹介した、復帰後の国際通りの夜店で働く女性の記事が思いのほか好評を得ましたので、今回も調子に乗って昭和のたくましいオバーの記事を紹介します。昭和49年10月6日付琉球新報朝刊に、ある老人ホームの嘱託医の記事が掲載されていましたが、何とその医者の名は千原繁子さん(1898~1990)。ご存じの方もいらっしゃるかと思われますが、我が沖縄の歴史における初の「女医」として知られる偉人中の偉人です。

彼女は大日本帝国時代の女子教育の申し子でもあり、キャリアウーマンの元祖の一人でもあり、試しにWikipediaの彼女の項を参照するだけでもその偉大さはご理解いただけるはずです。個人的には「トートーメー考」(琉球新報社編)に掲載された彼女のエピソードが一番じわじわきましたが、それはさておき、復帰後の新報に掲載された彼女の記事全文を紹介します。読者のみなさん、是非ともご参照ください。

がんばってます 老人ホームの嘱託医千原医師

医療に終わりなし / 固い信念貫く

「先生に眼さえ見てもらえば安心する。妙なもんだね。理くつじゃない」。豊見城村翁長にある軽費老人ホーム「おなが園」のお年寄りたちは千原繁子医師(七七)の診療日を心待ちにしている。千原さんは医療器具と薬が一通り入った診察カバンをかかえて毎週水曜日、ホームの住人たちの健康管理にやってくる。

「だれでもやっていることなんですよ。社会のために手をのばす、という大それたことではない。これまでも係累や生活のためにやってきた。こんどはいうなれば廃物利用いうことでしょうか」と笑う千原さんは五官健康で年齢よりひとまわり若く見える。だが戦時中から戦後の医療不足のなかで千原さんの県民医療への貢献度は計り知れない。

沖縄戦では千原さん夫婦とも県内にふみとどまり県民の医療に従事した。「勝ち目のない戦とわかっていてもケガ人を見捨てるわけにはいかない」。疎開が始まったときも富山那覇市長も「女だから行ったほうがいい」とすすめたが千原さんはガンと拒否した。「私は明治の女で考え方は男尊女卑的だが男と同じ資格を持っており仕事に差別はない」というのが千原さんの持論

地位や富は役にたたぬ

米軍の本土上陸間ぎわまで千原さん夫婦は首里儀保の石穴で診療活動をしていたが激しい艦砲、機銃掃射が深夜から明け方までかかり那覇市繁多川に抜け、南部に移動、三和村(現在糸満市)の喜屋武で米軍につかまった。そのあと豊見城村、コザ、真和志と米軍が設置した診療所で疾病者の治療に当たった。患者は診療所外まであふれ一日二百人近い患者を診た。物品欠乏の時代だったが千原さん夫婦は両親を失った兄弟の子どもやみなし子を引きとって養った。五二年開業が許され千原さんは那覇市の一銀通りに内科小児科「千原医院」を開業、夫の成悟さんは公務員医師を続けた。三年前成悟氏に先立たれ、千原さんは「医院」を旧地の松山に移したが復帰の時点に医院を閉じた。現在は若い時に医学書以外読まなかったハンディをうめるため読書に余念がない。その間に知人の病院に週二回手伝いに行く。「乱読、雑読だが頭はつかわないとだめになる」という。また「地位とか富はいざというときなんの役にもたたない。戦争はめったにあることではないが、どんなときにも通用するのは耐えるということ。ことばではいえない体験を通じて感じた」と千原さんの人生哲学。戦争で生きのこった自分の現在の生活は「おまけ」だ、という。

貧しき者は幸いなり

千原さんは那覇市松山の出身。そして現在も松山一の二六の一で独り暮らし。千原さんが医師を志したのは父の影響が大きい。千原さんの父は県の公務員だったが幼少のころから医者にあこがれていた。だが五人兄弟の母子家庭で生活が苦しく三男の父は兄二人と力をあわせて働き弟二人を医専に送った。そのため父は自分が果たせなかった「夢」を子どもに託した。千原さんの兄弟四人のうち三人が医師だ。「父の教育に対する厳しさはいまでは考えられないほど。いやがる私を無理に机に座らせ『常に人より一歩先にならなければならない』と口ぐせのようにいっていた」。その情景はいまでもはっきり覚えている、という。公務員の家庭では経済的にゆとりはなく、千原さんは女学校時代「タマゴ焼きを一口食べてみたい」というのが最大の願望だった。昼食時間金持ちの娘たちはジーメー(島産米)のごはんに魚、肉、タマゴ焼きの弁当を開くのに千原さんはホロホロしたトーグミー(外米)に野菜いため生ミソの弁当。はずかしくて隠れて食べたが「一口でもタマゴ焼きを食べてみたい」と家庭の貧乏をうらんだ、という。だがタマゴ焼きは千原さんが女学校を卒業するまで一切れも口に入らなかった。

千原さんは大正四年東京女子医専に進学、寄宿舎生活が始まったが寮生の多くが良家のお嬢さんで食事がまずい、といっていたが千原さんだけはサンマ、サバなど大へんなごちそうだった。また休日などみんな遊びに出かけるのに遊ぶ金がない千原さんは勉強に専念した。「貧しき者は幸いなり」というキリストの言葉がわかったという。千原さんの忍耐強さは父のしごきと食物につちかわれたようだ。千原さんは大正十一年、医師の千原成悟氏と結婚した。

年寄りの立場にたって

「老人ホームに行くようになって考えることだが現在のお年寄りたちの大半は年をとったら子どもにみてもらうつもりでいきてきた。ところが世の中が急激に変わり考える心構えもないままはみ出してしまった。鬼ばばも時代のずれが生んだもの、若い人たちもお年寄りの立場になって考えてほしい」と千原さんはきょうも診療カバンを片手にさげてホームに行く。(昭和49年10月6日付琉球新報朝刊10面)