尚泰候の決断 その4

(続き)前回までに尚泰候の藩王時代の騒動についてやや詳しく説明しましたが、その出来事によって彼が決断できない “為政者” に成り下がった件を理解いただいた上で、明治29年(1896)の “決断” にいたった背景についてブログ主なりに言及します。

結論を先に申し上げると、「環境が変わったから」に尽きますが、具体的には明治12年(1879)の廃藩置県後に東京住まいを余儀なくされた尚泰候の心身に劇的な変化が生じたからなんです。つまり首里城に籠っていたときよりも、

1.心身ともに健康を保つことができ、

2.しかも「身の安全」を確信できた

ゆえに、息子たちに旧慣習のシンボルでもあった「カタカシラ」と「黄金の簪」を捨てるよう命じることができたのです。

ちなみに『沖縄の百年』に尚泰候に関する興味深いエピソードが掲載されてますので、該当部分を紹介します。

(中略)が、皮肉なことには、頑固党の抵抗によって利益をえたものは、頑固党ではなかった。それは国王尚泰ならびに、その一門であった。

尚泰は侯爵の爵位を授けられたほか、禄高四十万石の大名相当の利付き公債を支給され、またその叔父や実弟、それに子息なども、それぞれ公債と爵位を贈られた。そして、尚泰はべつに東京(九段)に私邸を下賜され、そこに呼び寄せられて、華族としての生活を営むことになった。

これまで病気を理由に、琉球処分官松田と一度も会わなかった尚泰が、上京途上の船内では「欣々然として、あたかも田舎児が東京見物を示すもの」ごとくだったという。琉球国王(藩王時代も含む)として過ごした長い歳月より、むしろ東京での生活の方が、尚泰にとっては幸せだったように思える。後年の尚泰の写真は、その顔から人工的な硬さを消して、いかにも自然である。これもまた彼の後年の生活を端的に物語っているように思える。

引用:「沖縄の百年 第一巻=人物編 近代沖縄の人びと」26㌻

この記述を裏付けるものとして、第二尚氏の歴代国王のなかで、尚泰候は長寿の部類に属します。彼は明治34年(1901)に59歳で亡くなりますが、平均寿命が45以下の第二尚氏の国王で、彼より長生きした人物は尚円王(61)や尚貞王(63)ぐらいしか思い当たりません。それはつまり、環境リセットの効果が絶大だったことの傍証とも言えます。

それともうひとつ、東京生活において尚泰候は正確な情報を入手できるようになったことも見逃せません。彼自身は九段の邸宅からほとんど外出しませんでしたが、来客や新聞報道などに直に接することで、明治維新後の世替わりの様子や、何よりも日清戦争の結果を正確に把握できたのも大きいかと思われます。

何時の時代も、旧慣習からの決別には勇気が必要ですが、

決して身の危険に晒されることはない

との確信が尚泰候をして “決断” に至った最大の理由であることは疑いの余地がありません。つまり、それだけ首里城内の生活が彼にとってストレス極まりない毎日だったわけです。

いかがでしょうか。ヒトは正常な環境においてはじめて “決断” ができる、逆に言えば、決断ができない場合は、取り巻く環境に問題がある実例とも言えます。そして、尚泰候が藩王時代にいかに気の毒な立場に置かれていたかも理解できたかと思われますが、この歴史的教訓は現代にも通ずるものがあります。現代の御主加那志前である

玉城デニー氏の取り巻く “環境” は(ゲフンゲフン)

と余計なつぶやきで今回のシリーズを〆ます。