先日ブログ主は過去記事をチェックした際に、史料の読み違いによる記述ミスに気が付いたので、その点についての説明と、それに関して “尚泰候の決断” と題した新たな記事を公開します。
その記述ミスの部分は「命どぅ宝とは」と題した記事内の授爵式の人物であり、同記事では尚泰候長男の尚典氏と明記してますが、実際に授爵式に臨まれたのは次男の尚寅(しょういん)氏であり、その様子は明治29年(1896)7月31日発行の「琉球教育」からの書き写しをご参照ください。なお、読者の便宜を図るべく、旧漢字は常用漢字に訂正し、必要に応じて句読点を加えてます。
〇尚寅君の授爵に就ては、一週日以前に於て、男爵親授式を行はせらるるに付参内すべき旨宮内省より通達ありたるに依り、(尚寅)君は奈良原男(爵)を訪問し右の趣き語りたれば、男爵には直に宮内大臣を訪ひ、礼服の事を談ぜられたる処、旧礼服の侭苦しからずとの事にて奈良原知事安心せられたる由なるが、尚泰候には天恩の優渥なるを畏み奉り(かしこみたてまつり)断然断髪し燕尾服を着け参内すべしと命ぜられたれば知事も宮内省も意外に出でたる由、さて授爵式の当日には新調の燕尾服「シルクハット」の装束にて八時過より宮内省に出頭し、式部官より式の指導を受け、軈(やが)て時刻になれば天皇陛下出御天顔麗はしく爵を親授あらせられたりと承はる。尚寅君には坐作進展総ての態度〇目なく終りたる故、当時宮内省にても頗る好評なりし由、豫(かね)て候が恭順礼を守らるる事に於ては真に誠に敬服の外なし。
因に云ふ、尚寅・尚順の両君は去る六月卅日父尚泰君の勲功に依り特に華族に列し男爵を授けらる。知事奈良原男爵・伊江・今帰仁両男爵と倶に本県に男爵あり、栄誉を謂うべし。
記事の内容を大雑把に説明すると、尚泰候次男の尚寅氏が授爵式に臨む際の礼法について奈良原知事に相談したところ、知事は宮内大臣を相談の上「旧礼服のまま苦しからず」との了解を得ていたものの、「断髪して燕尾服を着けて参内すべし」との父泰候の命により、尚寅氏は断髪して授爵式に臨んだという流れです。
※この授爵式にからんで、長男の尚典氏も断髪を断行します。
実は、廃藩置県後の我が沖縄の “ヤマト化” における旧王家の貢献は計り知れないほど大きなものがあり、その最たるものが尚泰候の息子たちの断髪なのです。ためしに比嘉春潮著「沖縄の歴史」の記述もご参照ください。
明治維新間もなく日本々土においては一般に断髪したが、沖縄では置県後後十数年を過ぎて、なお昔のままに黄金・銀・真鍮と身分別の簪をさしていた。師範学校生と島尻の高等小学校が断髪したのが明治二十一年で、それから学生生徒の断髪がだんだんと行なわれたが、都会地である那覇の小学生ははるかにおくれて明治二十八年にようやく断髪した。小学生の断髪は大体が教師の勧誘、むしろ強制によるもので、一般社会特に士族の過程ではまだまだこれに対して反撥的態度を持していた。両男爵(尚寅・尚順)のこのたびの断髪もあってから一般にも倣うものが多くなった。
このことは当時の人心の動向を示すものであった。
引用:比嘉春潮著「沖縄の歴史」437㌻
なお、このエピソードは巷にはほとんど知られていないようです。その傍証として「命どぅ宝」の記述ミスに対する指摘がなかったことからも伺えますが、
明治以降のりうきうの “皇民化” に元王家が大貢献していた事実を直視したくない
歴史家の本音が感じとれるのは気のせいかと思いたいです。
それはさておき、両男爵の断髪は明治以降の沖縄の行方を大きく左右することになったわけですが、そのきっかけとなった尚泰候の “決断” については次回の当ブログにて考察します。