あいろむノート – 方言札(5)

(続き)今回から2回にわけて、戦前と戦後の「方言札」に関する興味深い証言を紹介します。まず最初に、昭和16年(1941)ごろの国民学校(当時の小学校)での方言札の運用について、「那覇市史」に貴重な証言が掲載されていましたので、全文を書き写しました。

補足として、大日本帝国時代の沖縄県では地域によって標準語に対する “温度差” がありました。具体的には首里や那覇では(学校を除けば)敬遠気味であり、山原や離島などの地域のほうが標準語を使うことに熱心だったのです。

参考までに、古波蔵保好さんが沖縄日報の記者だった昭和15年(1940)年ごろの証言ですが、

あのころ、わたしは沖縄日報記者で、那覇市役所と県警察部、那覇署での取材を担当していたのだが、(那覇)市役所へいって、「やまとぐち」をいうと、

「あらん、わんどぅ、うせえとおみ」

と目を怒らせる吏員が多く、あべこべに県庁で「うちなあぐち」をいうと、不謹慎だといわんばかりにイヤな顔をされる。といって「やまとぐち」を使うのはキザみたいに感じて、口から出しにくかったことを思い出す。(『回想 吉田嗣延』48㌻より抜粋)

とあり、那覇市民の標準語に対する “本音” が伺える極めて興味深い内容となっています。

※戦前の那覇市役所は那覇市民の憧れナンバー1の職場であり、優秀な人達が勤務していました。

ちなみに、地方民が標準語教育に熱心だった一番の理由は、首里や那覇の人達が地方民がつかう方言、特に敬語が苦手な点をとことんバカにしていた実情があります。ただし標準語の前では首里や那覇、地方の区別はありませんし、兵役や県外就職、あるいは海外移民の場合は標準語を使えるほうが有利に決まってますので、地方民たちは地域を挙げて一生懸命標準語を勉強したのです。

ただし、証言内容から、(当時の県人たちの)熱意は伝わるものの標準語教育のやり方に問題ありありなのは否めません。というのも標準語教育の目的は「県内外、あるいは海外において日本語(標準語)でスムーズに意思疎通ができるようになる」ことですが、「標準語を使うこと」それ自体が目的になっているのです。つまり手段と目的が倒錯しているのですが、一例として屋号を日本語に読み直しても標準語のコミュニケーション力が上がるわけないのです。

なぜそうなったかは、当時の標準語教育が「行動科学」に基づく施策ではなかった点に尽きますが、行動科学は第二次世界大戦後に誕生した社会科学なので、やむを得ない部分もあります。少し話が長くなりましたが、読者の皆さん、是非ご参照ください。

「方言札」で標準語励行を強要 ‐ 仲田栄松

標準語励行が、しつこく提唱された昭和十五、六年ごろ、方言を使った者に対する罰として、学童の間では方言札による法度が設けられていた。

方言札は、各通学区域によって形や規格は多少異なった点もあったが、大抵の場合、五分厚みの板を縦二十㌢、横十五㌢に切って作ったものであった。

あの当時の田舎の学校では、登校、下校は勿論、休み時間などにも、看護番の目のとどかない場所では、しきりに方言を使っていたので、方言札が出るようになってからは、標準語に対する認識を深めるようになった。

しかし、そのように認識し意識しながらも、日頃なじんだ方言が突然飛び出したりして、毎日、幾人かの者が方言札を渡されたものである。標準語励行に違反して方言を使ったりすると、容赦なく方言札をいただくのだが、次の違反者へフダハキー(方言札を違反者へ引継ぐ)するまでは実に気苦労であった。

方言札は、ポケットの中に収めることができない規格となっていたので、上衣の裏側から背中に隠したり、あるいはバンドに挟むなどして、違反者を探し廻ったものである。ところが、何食わぬ顔でうろついていても、大体、方言札を持っている者は知っていたので、どれもこれも警戒心が強くて、誰一人方言を使う者はおらず、違反者を発見して方言札を渡すのは容易でなかった。

さて、方言札を持っている間は、幾ら方言を使っても別の方言札をいただくという心配はなかったので、これに便乗して巧みに相手を引っかけたヤカラもいたのだ。

しかし、方言札をいつまで持っていても良いということではなく、方言札を受けてから七日以内に誰かに渡さなければならない掟があって、もしもこれを期限内に誰かにタッチできない場合は、上級生の制裁を受けなければならなかった。

したがって、方言札を持った者は、週末になると方言を使った違反者探しに躍起となったのである。部落によってはフダウイマーサー(方言札が誰に渡っているか、確認する者)を置いて徹底的に取り締まりを行なっている所もあった。

それはともあれ、ある日の二時間目の休み時間に私と友人のT君と二人で校舎裏の犬走りの上で、トンベン(竜舌蘭)の繊維で凧の糸を綯っていると、そこへ上級生(高等科生)二人が出し抜けにやって来て、「君たち、そんな所で何をしているのだ。そこは遊ぶ所じゃない」と執拗にすごんだ。

すると、T君が「タコのテンナーをぬうてます」と答えたことから「君たちは、いつも方言ばっかり使っているのだなあ……」というなり、節だらけの竹むちで二人とも頭を強く殴打されたうえ、方言札までいただき、泣きベソをかいて教室へ戻った思い出もある。

そのころは、なんでもかんでも標準語励行だ、とその美名にはやされ屋号や固有名詞までも無理に標準語に直訳したりして、実に滑稽千万な標準語励行であった。

例えば、わが部落に次のような面白い屋号もあるのだが、これを標準語に置き換えて、チンナンスー屋とカタツムリ屋と呼び、また、アンダー屋をアブラ屋、ミーミー屋とメメ屋、ニーブイ屋をイネムリ屋などと平気で呼んでいたのである。

もしも、そのように呼ばないと方言を使ったなどとケチを付けられ、容赦なく方言札を授かったものである。

今にしてみれば、まったく笑い話に過ぎないが、当時の学童にしてみれば本当に真剣な態度であった。屋号や固有名詞までも標準語に直して話すという努力は、実に賞讃するに足りるものであろう。標準語励行にまつわる話も拾ってみると随分あると思うが、嬉戯せし幼時のころを振りかえってみると懐かしい限りである。

当時使われていた標準語励行の標語

標準語励行標語 国頭郡教育部会

「いつでもどこでも標準語」「標準語へ県民一致の力瘤」

「一国一心、言葉も一つ」「戸毎、人毎、標準語」

「一家挙って標準語」「乳児から慣らせ標準語」

「三つ児の時から標準語」「一億の心を結ぶ標準語」

「親しき仲にも標準語」「振興沖縄言葉から」

現住所 那覇市(以下略) 当時 十五歳 国民学校高等科一年生

引用:那覇市史資料篇第三巻七 34~35ページより抜粋