【普天間基地】宜野湾市の苦難の歴史で打線を組んでみた

普天間基地の枕詞が「世界で最も危険な飛行場」であることはよく知られています。一例として防衛省・自衛隊の公式サイトによると「沖縄県宜野湾市に所在する普天間飛行場は、市街地に位置し、住宅や学校で囲まれ、これを利用する航空機が市街地上空を飛行するため、世界で最も危険な飛行場と言われています」との記述があります。

それゆえに、我が宜野湾では普天間基地の移転が市政の最大目標の一つでもあります。なぜなら世界で最も危険なゆえに、戦後宜野湾は苦難の道を歩まざるを得なかったからです。そこで今回はブログ主が厳選した現時点の “宜野湾市の悲惨な状況” で打線を組んでみました。読者の皆さん、是非ご参照ください。

1番(中) 世界で最も危険な飛行場が作られた影響で、昭和25年(1950)に15,000人の人口が、10年後の昭和35年(1960)には3万を突破し、その2年後には市政が施行された。

2番(二) 世界も最も危険な飛行場が作られた影響はその後も続き、令和の今日では宜野湾市の人口は10万を突破した(外国人含む)。

3番(三) 世界で最も危険な飛行場が作られたので、県内最大手の企業であるサンエーが本社を置く。

4番(一) 世界で最も危険な飛行場が作られたので、琉大医学部が普天間高校の近くに移転する。

5番(右) 世界で最も危険な飛行場が作られたので、野嵩商会(ユニオン)が宜野湾市で5つも店舗を営業している。

6番(左) なお、世界も最も危険な飛行場の側にある普天間第二小学校の近くに、サンエーとユニオンが大型店舗を運営している。

7番(捕) 世界で最も危険な飛行場が作られた影響か、野球が盛んであり、甲子園優勝投手(島袋洋奨)、WBCの優勝メンバー(宮城大弥)、そして第31回U-18野球ワールドカップの優勝メンバー(知花慎之助)を輩出。

8番(遊) 世界で最も危険な飛行場が作られたので、横浜ベイスターズが昭和の時代から平成、そして令和の今日に至るまでキャンプを行なう。

9番(投) 世界で最も危険な飛行場に反対し続けているため、宜野湾市議会では旧革新勢力の野党の議席が激減。

補欠 世界で最も危険な飛行場が作られたので、JAL主催で琉球海炎祭りが21回も開催されている。

補欠 世界で最も危険な飛行場が作られたので、我が宜野湾には小、中、高校、そして大学が設立されている。