今回は日本社会における「右翼」とは何か?説明して、それがなぜ「ウヨク」あるいは「ネトウヨ」に変質したからを、ブログ主なりに考察します。まず、現代日本における根本思想のひとつに
「日本人は天皇陛下の前ではすべて平等」
があります。この発想は明治の2大戦役(日清、日露)で一般化し、現在の日本社会における基礎といっても間違いありません。この建前は天皇家の権威が絶対であることが前提ですが、意外にも日本の歴史において天皇家の権威を絶対化する思想が理論家され、世間に公表されたのは江戸時代になってからなのです。
このあたりの事情は平泉澄教授の「少年日本史」から抜粋しますが、天皇家の存在こそが日本の歴史そのものであることを初めて理論化したのが山鹿素行(1622~1685)です。平泉先生の少年日本史(山鹿素行編)から山鹿素行の告白を抜粋します。
私は以前からシナの書物が好きで、日夜つとめて読みましたので、近年新たに舶来した書物は知りませんが、十年前までに渡って来た書物は、たいてい残らず見ています。そのため、しらずしらずシナを尊ぶようになり、日本は小国ですから、何度もシナには及ばない、聖人もシナにこと出るので、日本には出ないのだと思っていました。これは私ばかりでありません。古今の学者、皆かように考えて、シナを慕い、シナを模倣してきたのでした。近ごろになりまして、初めてこの考えは誤っていると気が付きました。「耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てて遠きを取る」こと、まことに学者の通弊であります。よく考えてみれば、日本こそ最もすぐれた国であります。第一に、天照大神の御子孫が、神代以来連綿として君臨し給い、乱心賊子が現れず、革命を見ないこと、これはすなわち仁の徳であります。第二に、公国の上代、聖徳の天皇相ついで道を立て制度を定め給うたので、礼法は明らかであり、四民は安らかであること、これすなわち智の徳でしょう。第三に武威盛んであって、進んで外国を伐ったことはあるが、外敵の侵入をみた例はないこと、これすなわち勇の徳でしょう。智仁勇の三徳を併せ有つことが聖人の道でありますが、今いちいち実績についてしらべてみると、我が国の方が、はるかに外国よりはすぐれているので、我が国こそまさしく中国とか、中朝とかいうべきであります。
この文章は「配所残筆」からの抜粋(平泉教授による現代語訳、配所残筆は延宝3年成立)ですが、上記の思想こそ右翼の根本原理なのです。纏めると
「日本は世界でもっともすばらしい国である、その理由は神代以来天皇家が君臨し給い、有史以来革命(放伐)が一度も起こっていない。」
になりますが、そうなると論理的帰結として
・天皇家の権威は絶対である。
・湯武放伐(革命)の思想の否定。
になります。同時代に登場した山崎闇斎(1619~1682)が始祖の「崎門の学」も明確に「湯武放伐(革命)」を否定する立場にあり、山鹿素行の思想と相まって、幕末の尊王思想*が誕生したといっても過言ではありません。
*幕末の尊王思想に大きな影響を与えた「水戸学」について、今回はあえて述べません。
ちなみに我が沖縄においては「湯武放伐(革命)の思想の否定」は理解しづらい思想です。理由は簡単で、有史以来革命の連続だったからです。たとえば舜天(1166~1237)も英祖(1229~1289)のご子孫は現代では何の権威もありません。内間金丸(後の尚円王)が王位についた話が典型的な例で、その理由が泊村の老人が
「物呉ゆすど我が御主、内間御鎖ど我が御主」
と謳いだしたことから、重臣たちが前王の尚徳の子孫を放伐して、内間金丸を王位につけるのですが、これはまさに革命思想で、「暴君だろうが何だろうが、王の権威は絶対」という発想は全く見当たりません。
それゆえに、現代の沖縄県民には「天皇の権威は絶対である」との発想がいまいち納得できない、何故日本国憲法のトップバッターに天皇の地位や国事行為を明記している(第一条から第八条まで)かが理解できない、その結果誰も右翼について本気で勉強する気もなく、単純に戦後世代(1945~1972)が醸成した思想信条に反する人たちを単純に「右翼呼ばわり」する残念な状態になってしまったのです。(続く)