ロックとコザ(1994)番外編 - サウンドシティー回の検証記事

今回は “番外編” として、「ロックとコザ(1994)」の “番外編” として、川満勝弘さんの証言に対する検証記事をアップします。実は、川満さんに限らずオキナワン・ロックの面々の証言には時系列が曖昧な部分があって、整合性が取れないケースが散見されます。

ちなみにブログ主がチェックした限り、時系列が一番正確だったのが、昭和59年から60年にかけて沖縄タイムスにて連載された「喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄(全57話)」です。なお、川満さんの場合は時系列が合わない証言が多い傾向あります。

そのため、証言の裏付けとなる「一次史料」を見つけるのが困難であり、証言の信ぴょう性すら疑いたくなる場合もありますが、川満勝弘さんの証言の中にでてくる「サウンドシティー」のエピソードについては、ブログ主なりに裏付けが取れましたので、読者のみなさん是非ご参照ください。

※サウンドシティー回は以下リンク参照

ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その14

ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その15

まず、ブログ主の勘違いを紹介しますが、サウンドシティ回において、

□基地外で活動再開 その私たちの合宿しているところに、金武でやっているときのオーナーが「ワンネー海洋博サーニ・ヨー、ホテル・タティーン・ディ・ナカイ・ジン・イッタル・ムン、ウリガ・ウカシク・ナティー・ネーラン、カッちゃん・ワンネー・デージ・ナトォー・シガ(俺は海洋博でホテル建てるといってお金つぎ込んだのに、これが全部おかしくなってしまって、かっちゃん俺たいへんなってるよ」力を貸してくれないかといって訪ねて来たんです。(「ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編ーその14)

とあり、この記述からサウンドシティーのエピソードは海洋博終了後の昭和51年から52年の話と思い込んでいたのです。実は「全部おかしくなってしまって」の件は昭和48年(1973)11月17日、石油ショックに端を発する「海洋博の中止・延期」の大騒動の時期の話だったんです。

※詳細は割愛しますが、海洋博は翌74年2月に「昭和50年(1975)7月20日~翌51年(1976)1月18日での延期開催」で決着がつきます。なお、この時の騒動は屋良朝苗著「激動の8年」の記述が一番参考になります。

そして、以下の記事により、サウンドシティーのエピソードは昭和49年(1974)であると確信しました。全文を書き写しましたので、ご参照ください。

酒場で飲酒、喫煙 / 中・高校生ら未成年者75人補導 / 悪質業者、徹底摘発へ

【浦添】高校生を含む未成年者の盛り場の出歩き、飲酒、喫煙が増加し問題になっている折、普天間署は、20日早朝一般人からの通報で浦添市内のキャバレーを手入れ、ビールなどを飲んで夜通し遊んでいた中、高校生19人を含む75人の少年、少女らを補導した。また、未成年者と知りながら店内に自由に出入りされ、酒類を提供していたキャバレー経営主も検挙した。

捕まったのは、沖縄市諸見里1324の1、金城幸子(31)。普天間署の調べによると、同日午前2時ごろ、金城の経営する浦添市牧港1196、キャバレー「サウンド・シティ」に多数の未成年者が出入りしている、との訴えで、同署員が現場に急行、店内を立ち入り調査しようとすると、内から鍵をおろして立ち入りを拒否した。このため、本署に応援を求め15人の署員が出入口二か所で張り込みを続け、同日午前6時半ごろ、客を帰そうと出入り口のドアを開けた瞬間、署員が一斉に店内に踏み込んで一人残らず補導した。

店内は、約三百人の若い男女で足の踏み場もないほど。そのほとんどが未成年、あまりの数の多さに署員もびっくりしたほどだった。中学生1人、高校生18人を含む18歳未満の少年、少女75人を大型バスで普天間署に連行、残りは現場で説諭して帰宅させた。高校生の中には、学校から家に帰らず、グループで遊びに来ているのもいた。警察の取り締まりを気にして明け方まで店から出してもらえなかったという。

キャバレー「サウンド・シティ」は、客に700円の入場券を売ってビール、コーラなどを提供、バンドに合わせてゴーゴーダンスなどを踊らせている。さる8月12日にも同様な風俗営業法違反で検挙されたばかり。この時は10人の少年が補導された。このため、同署では警告を全く無視した悪質事犯だとして、経営者を事件送致するほか、行政処分を上申する考え。

今度の場合、補導された未成年者の中には、宜野湾、浦添、那覇をはじめ糸満、佐敷、嘉手納など、遠くから来た者も多く、手入れされたキャバレーがいかに未成年者のたまり場になっていたか推察される、としている。補導された少年らは15、6歳が最も多かった。普天間署では、今後このような悪質業者は徹底的に摘発する一方、父兄も子供の行動に今一度注意してほしいと非行化防止を呼びかけている。(昭和49年10月21日付沖縄タイムス朝刊9面)

この記事の内容は、喜屋武幸雄の証言とも一致します。参考までに喜屋武さんは(ロックアラカルト沖縄〈47〉によると)昭和48年(1973)年にダンプ運転手に転職しますが、交通事故で大けがを負ってしまいます。その後、川満さんから誘われてロック界に復帰を決意しバンド(ジグザク)を結成、サウンドシティーで演奏するという経緯ですが、サウンドシティーの盛況と顛末については以下ご参照ください。

(中略)さらに勝っちゃんは、あるスポンサーを口説き落とし(金城幸子さんのこと)最新の音響設備を海外から取り寄せ、沖縄一の規模のゴーゴークラブ・サウンドシティー(新聞史料ではキャバレー)をオープンさせた。

音楽の転換期に歩調をあわせるように、ダンスもゴーゴーからディスコの時代へと移行し始めていた。

それを先取りする形でオープンしたサウンドシティーは、ジグザグとコンディションの人気バンドを二つも抱え、交互にプレーさせてライバル意識をあおった。

その緊張感が客にも伝わるのか、両派に分かれて熱気ムンムン、サウンドシティーはオープンと同時に若いファンに埋め尽くされた。(喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄〈48〉)

(中略)若い女の子が列をなして、集まり、そのしりを追いかけて男の子が群がり、サウンドシティは毎晩ゴーゴーパーティーのようだった。

当然、若いがゆえの青い欲望が入り乱れ、痴話けんか、トラブルもあったが、夜の遊び場には付きものと、別に気にもとめなかった。やがて、それがサウンドシティーの命取りになる。

どんどん若い客が増え、低年齢化、警察からの警告があった時にはもう歯止めがきかないほどヤングでごった返し、収拾がつかない状態になっていた。

ついに、毎週土曜日の夜は、警察のバスにあふれるほどの未成年者の補導が続き、新聞ざたになるに及んでスポンサーがダウン。もうかっていながら一年弱で店を閉めてしまった。

勝っちゃんの執念で生まれたサウンドシティーとジグザグはともに成功しながら、どこかに無理があり、ともに、うたかたのように消えてしまう運命にあったのだろう。

それにしても、あのサウンドシティの熱気はすさまじかった。語り草になってしまったが、覚えている方も多いだろう。(喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄〈49〉)

喜屋武さんの証言の特徴は、サウンドシティーのエピソードを「武勇伝」として語っていることで、この点は川満さんの証言とも一致します。

しかし、サウンドシティーは、儲け過ぎてつぶたんですよ。あのとき、二つのバンドであまりにも人がいっぱい入り過ぎて、経営者が欲を出して一二時あとも営業するようになったわけです。一二時半ごろまではいいんですが、一時、二時まで営業してしまって、さらに未成年者まで入れたものですから、今度は警察の手入れがあって特捜の灰色のバスが五台並んで来てみんな補導されて、これは新聞にも載っていましたよ。それで一年ぐらいでつぶれたかな。

そのときに補導されずに助かった生徒たちが、今では会社の営業課長とかなんとかの役員になっていて、「カッちゃん、あのときの思いは一生忘れないよ。すぐステージにいるカッちゃんがステージの裏まで誘導したさな、あそこまではさすがの警察もわからんかったさ。あのときは見事ヤタッサー(だったね)」と、そのときの女性や男性が大人になって、あの時の事を話に来ますよ。(「ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編ーその15)

最後に、サウンドシティーは沖縄県立図書館に現存する浦添市の地図から昭和53年(1978)以降消えてます(場所は牧港のイバノのところ)。それ故にこれらの証言をつなぎ合わせると、サウンドシティーのエピソードは昭和49年である可能性が極めて高いことと、このエピソードからオキナワンロックの面々が地元に愛されない理由がはっきり分かった点を追記して今回の記事を終えます。