本日ブログ主は、台風6号の影響で自宅に缶詰め状態のため、これまで蒐集した史料をチェックしたところ、OneNote に保存していた風俗関連の史料が同期エラーで全滅している件に気が付きました。
ただし、OneDrive に保存している原本と、当運営ブログにて公開済の “沖縄の特飲街 – まとめページ” は無事だったので、紛失史料はないことを確認の上、史料を再チェックしたところ、面白い記事を見つけましたので公開します。
参考までに、りうきう・おきなわの歴史において法的に売春が禁止されるようになったのは、復帰後の昭和47年(1972)以降からです。大雑把に説明すると、17世紀に辻・渡地(わたんじ)・中島が設置されて以降、昭和20年(1945)までは管理売春の時代であり、アメリカ世時代は事実上野放しの状態にありました。
ただし、昭和45(1970)年1月に本土法に準じた売春禁止法が立法化され、復帰直後の7月1日には本土法の完全適用が実現し、現在に至るまで売春行為は違法の扱いを受けるようになります。もちろん法律が適用されたからといって、ただちに民間から売春行為が撲滅したわけでなく、復帰後の沖縄社会では売春防止法違反で摘発される業者やホステス兼売春婦の存在は後をたちませんでした。
とはいっても復帰直前であれば摘発が相次ぐのも理解できますが、復帰から10年以上経過しても年平均50件ちかく摘発されるのはどう考えてもおかしいです。一例をあげると昭和60年(1985)年8月16日付沖縄タイムスによると、宜野湾署が真栄原新町特飲街の売春事犯の徹底検挙に乗り出すという記事が掲載されていました。
売春事犯の一掃へ / 真栄原新町特飲街一帯 – 徹底摘発に乗り出す【宜野湾署】
【宜野湾】宜野湾市の “真栄原新町特飲街” からの売春事犯一掃を目指している宜野湾署(東清一署長)は、これまでの業者指導の方針から徹底的な検挙、摘発に乗り出した。
真栄原新町地区は、終戦直後からのいわゆる “売春地帯” 。警察も何度となく取り締まりを繰り返してきたが、イタチごっこの様相でほとんど効果があがらなかった。
そのため、宜野湾署は、今年四月ごろから売春一掃を目的に、同地区の環境浄化運動を強化してきた。
まず、制服警察官による警らを多くしたほか、抜き打ちでの取り締まりを実施するなど、風営法違反に厳しく対処、業者に対しても法令講習会を開催し、健全化に向けての指導を続けてきた。
特に同地区には格子を利用して、いわゆる “飾り窓” を設けた料亭や小料理店が多いことから、外から中がのぞけないように店の形態を改装するよう強力に指導した。
その結果、大部分の店が形態的によくなってきたが、まだ一部には依然として従来のような営業を続けている店も残っているという。
中でも売春に直接つながる客引き行為には厳しく目を光らす方針で、十日夜にも客引きをしていた小料理店の女性(三三)を風営適正化法違反の現行犯で検挙した。
今後も同様にささいな違反にも厳しく対処する方針で、客引き行為などでは本人だけでなく、客引きをさせた店の経営者の責任も追及する。(昭和60年8月16日付沖縄タイムス夕刊07面)
参考までに宜野湾署から真栄原新町特飲街までは、距離にしてパトカーで10~15分もあれば移動できる “近場” ですが、復帰して15年を経過しても真栄原新町では売春事犯が後を絶たなかったというわけです。ではなぜ、警察による “環境浄化” が徹底されなかったというと、昭和59年10月26日付沖縄タイムス夕刊4面に掲載された、照屋寛徳さん(当時弁護士)のコラムに答えの一つが明記されていたので紹介します。
(中略)「先生、何で弱い女の売春宿経営者が集中的に摘発されるんでしょうね。絶対に摘発されない店がある。
それらの経営者は取り締まりの警察官と癒着し、売春婦をあてがっている。
だから、経営者が逮捕されることもない。うそだと思うなら調査してほしい。みんなが知っている。
補足すると、上記コラムで言及された「絶対に摘発されない店」は警察にとっても重要な拠点でした。その理由はいたって簡単、
アンダーグラウンド組織に対する極めて有効な “情報収集” の場
だったからです。その傍証として、暴力団対策法が強化された平成24年(2012)にタイミングを合わせるかのように、沖縄の特飲街は警察の手によって(お役目ごめんとばかりに)徹底摘発を食らい壊滅してしまうのです。
物騒な話はそこまでにして、ブログ主は復帰後も真栄原新町特飲街が生き残った納得できる理由を見つけた気がしたので、当ブログにてまとめた次第であります(終わり)
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