ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その1

□生い立ち 私は、生まれたところがわからないんですよ。一九四四(昭和十九)年八月十八日生まれで、宮古のどこか、誰も教えてくれないんです。それと、私は一人っ子ですが、遠い親戚が息をひきとる前に、双子の兄弟がいるといっていたんですが、ああいうときに嘘はいいませんよね。だから、私と似ているのがどこかにいるんじゃないですかね。

□宮古から本島、コザへ 私は、宮古の平良市平良第一小学校ですが、そこに小学校四年生まで通っていました。私の母親は沖縄本島に出稼ぎに行っていて、宮古では叔父に預けられていたんです。それで、母親に会いにといって訪ねて沖縄本島へ来て、母と暮らし始めたんです。そこは、昔でいえば美里村ですかね。そこで闇のガソリンスタンドか何かをやっていたと思います。

母は大正元年生れじゃないですかね。父はもう亡くなりました。

その美里からはすぐに移って、学校が近からということと、母がセンターでバーをやるということで、カマハラ〔嘉間良〕というところに来たんです。今の「キャノン(ライブハウス)」の裏あたりです。それで、私は四年生から六年生まで胡差小学校(現コザ小学校)に通いました。胡差小学校で五、六年に運動会をしたのを覚えていますから、そのころには移ってきています。

私の母がやっていた店は、女の人が一人か二人ぐらいの小さなAサインバーでした。おでん屋とかもやっていて、アメリカ兵はソーセージとか好きでしたね。経営はおでんのセクションとバーのセクションみたいな形に分けて別々にしていたのかもしれません。

□センター通りで センター通り(現中央パークアベニュー)は、真っ白い砂利道で米兵がセーラー服着て歩いているのもいますし、白い制服の海軍とか、アーミー(陸軍)、エアフォース(空軍)など、軍人の凛々しい制服姿が多かったですね。センター通りの人どおりは、今の平和通りみたいな感じでした。

那覇エアベース、嘉手納エアベース、普天間などの基地がいろいろあったので、そのころのバー街みたいなものは、金武、辺野古はもちろん、那覇、勝連、具志川、もう沖縄全島そういった状態でした。こういうバーというのは、那覇の街では波之上がそうですし、南部にもAサインバーはあったと思いますよ。

一九五〇年代の後半から六七、六八までは、お金がガボガボ入ってきた印象があります。今は一ドル一二〇円ですが、復帰のころはドルが三六〇円の時代ですし、すべての車が外車で、国産車なんて走っていなかったです。タクシーもパトカーもバスもみんなアメリカ車だったんです。

あのころ、センター通りを歩けばお金が落ちていました。それに、バーの掃除を手伝ってソファーの上に一ドルとか二五セントとかが落ちているのを見つけたりしましてね、小さいことにお金の苦労はあまりなかったですね。

また、たまには店から五セントで買ったガムを一〇セントで通りすがりのアメリカーに売ったりもしました。

そのとき、私は子供でしたから、アメリカーに対しての印象は、不思議な人間たちだなと思いましたね。まず、話す言葉が違うし、身長も違うし、目の色も違う、こいつらはどこから来たのかなってね、その部分に興味がありましたね。

アメリカーが、怖いというようなことはないんですね。子どもには乱暴することはありませんし、第一、私たちと彼らでは目線の位置が全然違うから、彼らの視線は私たちの遥か上で、たまたまむこうがこっちを見てもチラッとだけしか見ませんでした。

あのころのセンター通りというのは、ある意味で売春宿みたいなのがたくさんあって、それで子どもながらに非常に興味を持っていて、また、あのときのぞき見というのが流行っていました。それでのぞき見グループというのがあって、あの時の家というのは木のドアとかトタンとかで、みんな古いですから、それでけっこう明かりがもれるのですが、そこから私たちはのぞいていたわけです。

そういうときにオユキ(喜屋武幸雄さん)とも知り合ったんじゃないかな。小学校五、六年だったから、屋根から屋根に跳びまわって、屋根の上からものぞきをやっていました。

それから、小学生ですから、パッチ・クヮー・エー(めんこ遊び)や、輪ゴムのゴム・クヮー・エーとか、コカ・コーラのびんのふたを何個集めるとかいうビンヌ・フタ・クヮー・エーなんかもしましたよ。

オユキはマーブル・クヮー・エー(ビー玉遊び)が上手でした。私は後輩だったので一緒について、マーブル・クヮー・エーで、道場破りみたいに他の部落に遠征にも行きましたよ。学生服のポケットを全部外に出してハサミで切って、すると中はみんなつながりますので、その中にビー玉を入れたら服の後ろの方へ全部流れるからチャー・イリー(入れ続けて、たくさん入れて)、隣の部落へ遠征に行ったりしたこともあります。

そんなときに、オユキが「エー、カッちゃん(川満勝弘さん)、アマカイ・マーブルがウティー・タン・ドー(あそこの方にビー玉が転がっていった)」というので、私が「ウティー・トー・シェー・シムサ、ヌーガ(落ちたのはいいよ)」と答えると、「アラン(いや)、もったいない」といって、ドブに入って落ちているビー玉を取って、ポケットに入れてジャラジャラさせて遊んだこともあります。

また、パッチー・クヮー・エーですが、これは何枚と出すときに「エー、いちいちカウント・サンケー、チャッ・サン・ディクトゥ、ウッピン・ディレー(おい、いちいち数えるなよ。いくらっていってるんだから、これだけってだいたいで出せよ)」といって出させて、「トォーあと一枚グヮー・タラーン・サー、ヤー・ムノー。二枚ぐらいタラーン・サー、トォー、ウッピ・ドーヤー(よし、お前のはあと一枚足りないみたいな。二枚ぐらいたりないな、よしこれで丁度だ)」という感じで、みんなが食事をしているテーブルの上にこれ置いて、バン・ミカシテ(バンッとやって)打つわけです。私たちは一所懸命これだけ、のめり込んでやっていました。

それで、オユキと私は、このパッチーもマーブルもびんのふたも輪ゴムも全部壷にいれて、バリラン・グトゥ・シ(ばれないようにして)「パッチー・アマ、マーブルヤ・アマン・カイ(めんこはあそこ、ビー玉はあそこだな)、ゴムはウマン・カイ(ここに)、びんのふたはマー・ヤガ(どこだったか)」と二人で土の中に埋めたのはいいんだけど、「マァーン・カイ、ウミタガ・ヤー(どこに隠したかな)」というふうになって、まだ出てこないから今でも友だちの庭のどこかに埋まっていると思いますよ。

私は、自分が感心するほど勉強はしなかったですね。友だちの間では、いかにして映画館(キャピトル館のこと)をヌギ・バイ(ただ見)するかとか、そのためにいろんな方法を試しましたね。

小学校では、センターに住んでいるということでよその子に変な目で見られたり、いじめられるということはなかったですね。

胡差小学校には、センターやカマハラ〔嘉間良〕とか、だいたいそういうところから来ていたので、もう外国人、黒人とか、メキシコ人、いろんな人種はみなれていました。でも、そういうことは、中学校や高校になってからはあります(続く)。