(続き)前回の記事にて、沖縄の復帰運動における、一部沖縄県民のやり場のない怒りが、明治12(1879)年の廃藩置県に対する歴史認識に大きな影響を及ぼしている件についてブログ主なりに言及しました。今回は、この点についての補足説明を加えながら、「琉球処分」という用語がいかにマイナスイメージに染まっていったかを説明します。
アメリカ世時代(1945~1972)の復帰運動に関して、当時の琉球住民の間では「施政権返還を優先(保守系)」と「即時無条件全面撤退(革新系)」との意見対立があった件については前回の記事で説明しました。ただし歴史の現実は、「即時無条件全面返還」を主張して当選した屋良朝苗主席率いる琉球政府が、「施政権返還」を優先して日米交渉を行ない、昭和47年5月15日の復帰が実現します。
それゆえに、屋良氏を擁立した革新系政治家たちのやり場のない怒りは大きく、「屋良朝苗回顧録」によると、那覇市民会館大ホールで開かれた国の復帰記念式典に(昭和43年の主席選挙で屋良さんを擁立した)革新系の国会議員、県会議員がそろって欠席をし、かつ同日に復帰協主催の「『沖縄処分』抗議県民総決起大会」を開催して、屋良知事(当時はみなし)の “公約違反” に対し抗議の意を示す有様でした。
ただし、そこで終わっていれば、今日に至るまで “72返還の怨念” は継続しなかったと思われます。というのも、同年6月25日に行われた第一回沖縄県知事選挙において、革新共闘会議は屋良朝苗氏を擁立して、選挙戦を戦い、そして当選しちゃったのです。それはつまり、屋良主席が公約に反してまで、沖縄の本土復帰を実現したことを県民が高く評価したことを意味し、そして屋良氏の公約違反は政治的には「無問題」となってしまったのです。
その結果、復帰直後の第一回沖縄知事選挙は、後世に大きな禍根を残します。それはつまり、
1.革新系が擁立する政治家の「公約違反」は、自民党が擁立する政治家に投票するよりは “まし” との慣習が確立してしまったこと。ちなみに去年の県知事選でもこの “悪癖” が顕著に見られました。
2.「即時無条件全面返還」を実現できなかったやり場のない怒りが、「基地問題」や「歴史認識」といったカテゴリーに流れ込んでしまった件。
の2点です。そして最も影響を受けた歴史認識の一つが明治12(1879)年の廃藩置県であり、アメリカ世時代に琉球処分の用語を始めて使用した大城立裕先生が辟易するレベルで「マイナスイメージ」が定着してしまったのです。
しかも、”72返還の怨念” に “沖縄は差別されている” の命題が合体すると、劣等感を拗らせ過ぎたモンスターが誕生してしまうわけで、現代でもその末裔たちが「辺野古新基地反対運動」を主導しているのです。参考までに、昭和54年当時は、沖縄タイムスの購読者を中心に “モンスター” が生息していたことをうかがわせる記事を見つけましたので紹介します。ただし引用史料はあくまでも「新聞記事」であって、明治12年から昭和54年までの100年の現実とは限らない点を意識して読み進めることをお勧めします。(続く)
「琉球処分」の歴史的特質 – 琉球処分100年を考える公演集会から =要旨=
明治政府による「琉球処分」から百年の歳月が経過した。かつて伊波普猷は「処分は一種の奴隷解放なり」と積極的に評価したが、この歴史的意義についての評価は今日では一定しない。戦前の、差別の収奪の暗い時代をくぐり、国内唯一の戦場となった沖縄戦で全土を焼かれ、肉親を殺され、引きつづく米軍占領支配下で〇苦の体験を重ねてきた県民にとってこの百年の沖縄の歴史は果たして人間として生きるうえで納得できる姿ですすんできたといえるか – 。しかも、“新たなる琉球処分” といわれた「復帰」のあとも、米日両国による集中的な軍事基地の供花とあわせて、CTS建設をはじめとする国策の押しつけによって国家目的の貫徹のためには地域の生存権を顧みない施策がおしすすめられるなかで生きることを強制されており、その基本的な路線は「処分」以来一貫して変わらないという見方もある。このような現実を踏まえつつ「琉球処分100年を考える」講演集会が去る27日に労働福祉会館で開かれた。集会では「“琉球処分100年” に思う「(平良修・佐敷教会牧師)「“琉球処分” の歴史的特質」(金城正篤・琉球大学助教授)「“琉球処分” と現代」(荒崎盛睴・沖縄大学教授)の三つの講演が行われたが、つぎは同講演の要旨をまとめてみた。(以下略)
引用:昭和54年4月3日付沖縄タイムス5面