ここ数回、当運営ブログでは珍しく “古りうきう” の真面目な仮説記事を掲載し続けています。それはつまり、「古琉球の深淵 – おぎやかの謎」の続編を掲載すべく、彼女に関して集めた史料を改めてチェックしたところ、これまで気が付かなかった “盲点” に気づいたためですが、今回もその流れで「たまおとんのひのもん(玉陵の碑文)」について言及します。
ちなみにこの碑文のおかげで、おぎやか(御近)が後の歴史家から “怪物” 扱いされる一因になっており、確かに原文をチェックすると不穏な単語が目につきます。試しに全文を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照ください。
※原文は佐久本興吉撰書「たまのおとんのひのもん」からの書き写し。
原文だけ見ると、いまいちよくわからない部分があると思われますので、ブログ主の意訳&解説を紹介すると、
① 首里おきやかもいかなし、まあかとたる、しよりのミ御ミ事=尚眞王の詔であるとの宣言。
② 御一人×8人=順番に、尚円妃(おぎやか)・尚円長女(おとちどのもいがね)・尚眞長女(まなべたる=慈山)・尚眞第5子(尚清)・尚眞第3子(尚韶威)・尚眞第4子(尚龍徳)・尚眞第6子(尚享仁)・尚眞第7子(尚源道)となり、第1子(尚維衡=浦添朝満)と第2子(尚朝栄)が省かれてます。
③ 以上九人~このところに、おさまるへし=このメンバーだけが子孫代々、この地(玉陵)に葬られる資格を持つ。
④ もしのちに~ちにふしてたゝるへし=(このメンバーで後に)争いが起こったら、この碑文を見よ、なお、書きつけに背いたらたっくるす。
になりましょうか。つまり、玉陵に葬られる資格を持つ王族たちに対する警告文なんですが、やはり〆の文言「このかきつけにそむく人あらハ、てんにあをき、ちにふしてたゝるへし」が物騒極まりないです。
だがしかし、よくよく考えるとこの文言は矛盾だらけなのです。というのも、15~16世紀のりうきう社会において、「王の名において呪いを唱える」なんて絶対にありえないからです。この件について説明すると、当時の社会は政治(王)と祭祀(神官)は分離・共同の関係にあり、つまり呪術を行使するのは神官の領域であって、王は(神官たちから)神の守護を受ける立場なのです。その証拠に『おもろさうし』をチェックすると、詩人や女神官が為政者である王(あるいは地方の権力者)に授ける「おもろ(神託)」のみ掲載されており、王自らのオモロは一首もありません。
にもかかわらず、玉陵の碑文は、王の名のり→(呪詛を)授ける相手を明記→呪詛の内容の順番で記述され、なんとこの構文は『おもろさうし』の神託と同一なのです。そのため、この碑文は「おぎやか(御近)の呪い」ではないかと疑われて来ましたし、後世の歴史家から王家の内紛の傍証として取り扱われるのも理解できます。一例として『沖縄大百科事典』のたまのおとんのひのもん(721㌻)によると、
下段には〈しよりの御ミ事〉として〈以上9人この御すゑは千年万年にいたるまでこのところにおさまるべし、もしのちにあらそふ人あらバ、このすミ見るべし、このかきつけにそむく人あらば、てんにあをぎ、ちにふしてたたるべし〉とある。王位継承をめぐる王家内紛の証とされるもので、尚円亡きあと弟の尚宣威があとをついだが、尚円妃(おぎやか)、すなわち尚眞生母〈よそいおどんの大あんじおぎやか〉のたくらみによって尚宣威が退き、代わって尚眞が王位についたといわれる(下略)。
と記載されてますが、果たしてこの碑文が本当に王家の内紛の傍証になるのか。次回は調べれば調べるほど矛盾だらけの「玉陵」についても言及します(続く)。