りうきうと “くろんぼ” とイソップ物語

昭和の話ですが、我が沖縄では黒人のことを、普通に「くろんぼ」と呼んでいました。もちろん、今では「ヘイト・スピーチ」扱いになるため、(高齢者以外は)ほとんど使わなくなりましたが、ちなみにいつ頃から「くろんぼ」と呼ぶようになったのか考えたところ、実はいまいちよくわからないのです。

※参考までに、白人は「しろんぼ」、あるいは「ひーじゃーみー」、米人と沖縄県民とのハーフは「あいのこ」と呼ばれていました。

それどころか、我が沖縄県民が初めて黒人に接したのは何時なのかも定かではありません。参考までに、歴史的事実をさかのぼってみると、1853年(尚泰王即位6年目)にペリー艦隊がりうきうを訪れたのはよく知られていますが、乗組員に黒人がいたかどうかよくわかりません。

明治36(1903)年にアメリカの艦隊が那覇を訪れ、その際に当時の中学生たちと野球親善試合を行った記事を見たことありますが(琉球新報)、その中に黒人乗組員がいたかどうかもわかりませんし、もしもいたら、記録に残っているはずです。

ほかにも、宮城嗣吉さんの証言によると、昭和2(1927)年に格闘技の興行として、米人ボクサー2名(トニック、ピーター)が来沖して試合をしていますが、宮城氏は彼らの肌の色について言及していないため、彼らは白人選手だった可能性が高いと思われます。

ただし、沖縄県民の多数が黒人と接するようになったのは、昭和20(1945)年の沖縄戦以降で間違いありません。この点については新聞などの史料で黒人米兵の存在を確認できますし、興味深いエピソードも散見されますので、今回はブログ主が厳選した2つの記事を紹介します。

まずは、平良辰雄(沖縄群島政府)知事とロスゲフ軍政官とのやり取りを紹介します。

〔女湯問答〕

きのう郡民連絡會議で良知事とロスゲブ軍政官との一問一答、良知事「夜間オンリミツツになつて黑人兵が闇からぬつと出て錢湯のに飛びこんで物騒だが軍の方で取締つてもらいたい」ロスゲフ大佐「それは済まない、今日直ちに憲兵長に連絡して取締らそう」(昭和25年12月05日付うるま新報02面)

琉球住民だろうが白人だろうが、いきなり女湯に飛び込んだらパニックになるに決まってますが、闇夜に紛れて黒人が飛び込んできたら、それはとんでもない騒ぎになったであろうことは想像できます。それはつまり、この手の破廉恥沙汰に対する取り締まり陳情が知事から米国軍政府側にあったということは、それに類するトラブルが各地で頻発していた傍証なのです。

当時の史料を参照すると、やはり米黒人兵に対する琉球住民の “偏見” はあったようで、昭和26年4月のうるま新報「コドモ版」に、黒人に関する “イソップ物語” が掲載されていました。イソップが生きていた時代に「アフリカ人」という単語はなかったとの野暮な突っ込みはなしにして、このような童話が掲載される背景を考えると、琉球社会における黒人への偏見を緩和したいとのうるま新報編集局の意図が伺えます。

原文を書き写しましたので紹介します。ちなみに読んだ感想ですが、ハッキリ言うと、

じわじわきます。

くろんぼと主人 / イソツプものがたり

ある人が アフリカのクロンボの子を めしつかいに やといいれました アフリカ人ですから むろん かおも からだも 色はまつくろでした

ところが ここのしゆじんは たいへん ものごとを こまかに きにかける人だものですから この子の くろいのを きたながつて どうも このアフリカ人の 色のまつくろなのは さきのしゆじんが ぶしような人で ふだん おゆにいれて よくからだを あらわせなかつた せいだろうと かんがえました

そこで なんでも たびたびおゆにいれてせつせとみがいて きれいにしてやるにかぎる そうすれば しぜんに このくろいのがおちるだろうと おもいました

そこで まい日 おゆをわかして むりにクロンボをいれて やたらにシヤボンをつけて ブラシでごしごしこすつて あたまからさあざあおゆを ぶつかけてやりました

ところが あらえばあらうほど クロンボのはだは いよいよくろびかりにひかるばかりで そのうち とうとうかわいそうに このクロンボの子は かぜをひいて もうすこしで しぬほどの ひどいめにあいました

いくらあらつても みがいても にんげんの もつてうまれた きじ は はげるものではありませんね(昭和26年04月07日付うるま新報02面)