今帰仁延子さんの考察 – その3

(続き)10代の経験が、後年に及ぼす影響についてはよく知られていますが、今帰仁さんも例にもれず、13歳から17歳までの4年間に受けた教育がその後の生きざまに決定的な影響を及ぼしたことは間違いありません。

その前に、彼女が如何に “特別な存在” であったかについて同級生の証言を紹介します。

※『ひめゆり – 女師・一高女沿革誌 – 』の中で証言者として登場する比嘉カメさんは、『ひめゆり同窓会会員名簿(2000年4月)』を参照すると、女子講習科五期生(明治36年卒)の中に石川カメ(旧姓)と記載されています。彼女は女子講習科に入学し、当時の校舎の事情で、私立沖縄高等女学校の一期生たちと一緒に授業を受けた経験を基に証言されています。

(中略)次に生徒の側からの記録として、宮川(スミ)先生の在任時代の教え子比嘉カメさんの歩んできた道の内容を紹介したい。米寿を迎えた比嘉さんが若き日を回想してまとめた文章で、淡々とした語り口がそのまま明治の女学生活を彷彿させる。明治三十六年女子講習科第五回の卒業生であるが、当時の成行きで先ず創立早々の私立高等女学校の第一回生として入学し、後女子講習科にかわった。女学校の同級生二十人について、次のように語る。

※宮川スミ先生は明治34(1901)年に熊本県より沖縄に赴任。

尚泰王の末孫で中城御殿の姫君尚オミト様はじめ、今帰仁御殿トートーグヮ今帰仁つる様、小禄御殿のトートーグヮ小禄カナ様ら上流の方々で、他には那覇の備瀬カメ様を除きますと、他府県からの寄留者の方達でした。寄留商人を親に持つ方も多く、そういう方はお化粧も上手にして、すつかり大人びた雰囲気でした。」(比嘉さん自身は宜野湾の旧家の出身である。)

※石川姓は宜野湾の旧家によく見られます。

その頃の教化科目は、修身、国語、歴史、地理、数学、理科、裁縫、習字、図画、音楽、体操の他随意科目として教育があった。特にお作法の授業について

「今後の沖縄の女子教育が盛んになるも、衰微していくも、みなさんの双肩にかかっているのですから、一挙手一投足にも品格を損はぬやう気を配らなねばなりません。」

とことあるごとに訓戒、先駆者としての誇りと自覚をいやが上にも高めさせられたのであった。

「日傘の柄の持ち方ひとつに致しましても、持つ手を高く上げすぎぬやうに、ひじを体から離し過ぎぬやうに、と細かく注意されるほど徹底したものでした。」

真にその様子がきめ細かに記されている。

先生方は全部他府県出身の方であること、教室でのお互いの会話は専ら方言で、御殿殿内の皆様の言葉が一般と随分異なっていたこと、入学の際、琉装を和装にかえたことなど語った後、

「宮川先生が、華族から平民まで、出身地も違う多数の生徒を、分けへだてなく平等にかわいがって下さったことが、非常に強く印象に残っている。」

と特に述べている点が注目される。

引用:『ひめゆり – 女師・一高女沿革誌 – 』66~68㌻

この引用だけで十分かと思われますが、尚泰侯の孫娘として生まれた尚オミトさんは高等女学校時代は、寄留商人は那覇、あるいは地方の旧家の生徒たちと机を並べて学習しており、しかも教師たちが身分分け隔てなく平等に接してくれたのです。それはつまり、彼女は「平等とは何か」を体験した尚家初の女性なのです。

そしてこれこそが大日本帝国時代の女子教育の真髄なのです。

実は、明治以降の女子教育を受けた生徒には共通点があり、それは「同期の絆」が非常に強い点です。具体的に説明すると、旧時代の身分の違いはあっても、学校内では平等に扱われるため、 彼女たちには “同期” という連帯感が生じます。なお、この連帯感は廃藩置県以前のりうきう社会には皆無であり、それゆえに新教育を受けた女生徒たちは「身分意識」を超えて、「日本臣民」として社会生活を営むようになるのです。

今帰仁さんの場合、結婚後夫の体調不良が原因で、家庭を切り盛り且つ家計を支えなければならない立場になります。その様子について娘の和子さんの証言が興味深いので一部紹介します。

「娘時代は尚家のお姫様として上げ膳据え膳の生活をしていた母でしたが、嫁いで後はさまざまことをやらざるを得なくなりました。当たり前の何でもないことでもそれまでやったことのない母にとっては大へんなことでした。機を織ったり、下宿生を置いたり、下男には下男の仕事をさせたりと、旧家をとり仕切る嫁の苦労は並大ていのことではなかったと思います。その上中城御殿での奉仕も勤めなければならず、そうした経験を経た母には、試練に耐えてきた人間の強さがありました。若くして未亡人となった私が、たまに弱音を吐いても全然相手にしてくれず、”自分はそれ以上のことに耐えてきた、あなたも頑張りなさい” というだけでした。私は母の弱音を聞いたことがありません。弟の戦死についても ”あの子がいてくれたらよかったのに” といったようなぐちは一度も言いませんでしたいつもき然として ”あなたがいて良かった。あなたは弟の倍やっている” と、逆に私が励まされていました。私はそうした母の暖かい愛情に支えられてこれまで過ごしてこれたと思います」と自叙伝でのべている。

上をみればあれほしこれほし欲しだらけ うつむいて見よ欲し(星)一つだになし

この歌も延子が子供の頃の和子に教えたものだという。延子の想いがにじんでいる。

引用:『時代を彩った女たち – 近代沖縄女性史』74~75㌻

この証言で興味深いのが、今帰仁さんには「苦労しているのは私だけではない」という発想が見え隠れしている点です。自分が「特別な存在である」との意識が強ければ、このような発想にはなりません。それはつまり、彼女は「生まれは特別であっても、自分は一市民として生きる」という無意識の前提があって、初めて芯の強い女性として振舞うことができたとブログ主は思うのです。

ここまで説明すれば、昭和43(1968)年に彼女の葬儀が首里協会で行われたのも理解できるはずです。残念ながら護得久和子さんの自叙伝ほか史料をチェックしても、彼女がキリスト教に改宗した事実を見つけることはできませんでした。ただし、一人の琉球住民として一生を終えた今帰仁延子さんの生き様を振り返ると、聞得大君の廃嫡は “必然” であり、そして彼女の決断に対しブログ主は最大の敬意を表して今回の記事を終えます。