二代目多和田会長が射殺された後、三代目翁長良宏会長が就任。表面上は対立もなく、平静さを保っていた。しかし、今年の五月三日夜、那覇市内の翁長会長宅と沖縄市の富永一家事務所にそれぞれ配下多数が終結したことから、内部対立が再び表面化した。
この時は双方の幹部が山口組の仲介で話し合いを持ち、そのままの体制を維持することで一応の決着が図られた。しかし、月に一回定例で開かれていた総長会議は、和解後も開催されていなかったことから、双方の緊張状態は解消されず、一色即発の “火ダネ” がくすぶり続けていたといえる。それが連続発砲事件で一気に噴き出した形だ。
複雑に絡む対立構造 / 尾を引く2代目会長射殺
もともと対立が表面化した原因としては➀ある一家の総長が山口組との関係をめぐって会長から処分された➁組員同士のトラブルをうまく解決できなかった組長に対し、会長が破門を言い渡した – ことなどが挙げられるが、その根底には、二代目多和田真山会長射殺事件のわだがまりが依然として残っている、ともいわれている。
対立が表面化する以前の旭琉会の構成員は、一千百二十五人(一九八九年末現在、県警調べ)。十四の一家、一つの右翼団体で構成されていた。対立発生後は、構成員の数でいうと、理事長派がその約六〇%を占めているといわれている。十四の一家、一つの右翼団体を会長派、理事派と簡単に色分けするのは難しい情勢で、ある一家の幹部は理事長派、その手下の組員は会長派、という具合に、思惑、対立構造は複雑に絡みあっている。県警では、両団体の構成員、勢力比などの情報収集に奔走しているのが現状だ。
全面抗争への発展を懸念していた県警は、富永理事長が中心となって「沖縄旭琉会」を結成したとの情報を入手した直後の二十日午前、刑事部長、捜査二課長、各署の暴力団担当者らが集まり、緊急会議を開催。➀抗争事件の未然防止➁市民に対する危害の絶対防止➂取り締まり体制の強化 – などを決め、各事務所を二十四時間態勢で監視することを決めた。にもかかわらず、その決定の矢先、二十一日から二十三日未明にかけて八件の発砲事件が発生し、懸念された全面抗争へ発展した。
県警はこれ以上の抗争を防止し、既に発生した事件の解決、暴力団の壊滅に向けて二十三日には、さらに厳戒態勢を八百七十人に強化するなど全力で取り組む構えを見せている。一般市民もこれに期待しているところだが、今回の一連の事件で感じるのは、抗争が起きるたびに市民が立ち上がり、暴力団排除を訴えたにもかかわらず、「暴力団を絶対に許さない」社会がいまだ形成されていないということだ。市民一人ひとりが暴力団を否定しないかぎり、暴力団は存在し、その対立抗争は続く。