歴史の奇跡が現出した日 – その1

今月15日は沖縄の施政権が米国から日本に引き渡されたいわゆる “本土復帰” から49年目にあたります。来年でめでたく50周年を迎えるわけですが、今回はブログ主なりに復帰の歴史的な意義について言及します。

その前に、復帰前の昭和43年(1968)11月10日の琉球政府主席選挙について説明すると、当時の革新共闘会議から出馬した屋良朝苗氏の公約のひとつに「即時無条件全面返還」があります。分かりにくいスローガンですが、屋良さんの説明によると、

私は、沖縄の復帰問題はつまるところ、基本的人権を回復し、また追及することである、と考えていた。これは早いに越したことはない。それを端的に表現することばが「即時」である。実際、「即時」といっても「早期」といっても、沖縄問題のように高度に政治的で困難な問題の場合には結局は同じことである。

「無条件」というのは、復帰それ自体が目的ということである。たとえば、基地を保持として復帰することを条件として復帰するのではない。復帰は、他の目的を達成するための手段であってはならない。だから私は「絶対的目的復帰」とも言った。(屋良朝苗回顧録109㌻より)

とあり、対抗馬である自民党沖縄(当時)の “早期施政権返還” の主張に対して作られたことが分かります。つまり、

在沖米軍基地の存在を認めた上で復帰を果たす(自民党沖縄)か、やむを得ず黙認(革新共闘会議)かの違いで、

ご存じのとおり選挙は屋良朝苗氏が当選して第五代の(琉球政府)行政主席に就任します。

ところが屋良さんが当選後に「即時無条件全面返還」のスローガンが一人歩きしてしまいます。沖縄教職員会など屋良主席の支持団体は “米軍基地撤去” が活動方針の一つなので、いつのまにか「米軍基地を(無条件で)撤去して本土復帰を果たす」との意味合いにすり替わってしまったのです。

そうなると屋良政権が施政権返還を優先して復帰を進めることに対する不満が鬱積します。そして支持団体の怒りが爆発したのが昭和46年(1971)11月10日の沖縄返還協定に反対するゼネストです。だがしかし歴史の事実は昭和46年(1971)6月17日に調印された沖縄返還協定の取り決めにそって、翌年5月15日に我が沖縄は日本国に復帰します。

ここで支持者内で屋良政権は “公約を反故にしたのでは” との疑問が起こります。屋良さん自身は在沖米軍基地に関しては黙認の本音で復帰を推進したわけですが、結果的に自民党沖縄の主張に沿った形になってしまったため支持団体から怒りを買います。復帰当日に那覇市民会館で行われた国の復帰祈念式典に革新系の国会議員、県会議員がそろって欠席した事実が象徴的で、いわば支持団体は屋良主席の業績に対してノーをつきつけたのです。(なお同日午後に行われた県の式典には欠席した革新系議員は参加しています)

ここまでが屋良さんが琉球政府の行政主席就任から復帰に至るまでの流れですが、実は本土復帰の “真価” はこの後に発揮されるのです。具体的には同年6月25日に行われた第一回沖縄知事選挙で屋良さんは対立候補の太田政作氏(自民党)を圧倒的大差で破って当選します。この事実は当時の沖縄県民の “本音の現れ” として極めて興味深いのですが、つまり権力者(施政権者)の変更に対して明確な民意が示されたわけであり、そして本土復帰後は

権力者の変更に対して “民意の同意を得る” ことが絶対の条件

との政治ルールが歴史上はじめて沖縄社会に定着します。実はこの事実こそ “沖縄における本土復帰の歴史的な意義” なのです。(続く)