本日はネコの日ですが、それに関連してブログ主はかつて小室直樹博士が「旧約聖書にはネコが登場しない」と指摘されていたことを思い出しました。無類のネコ好きの博士(訪問先の外国で野良猫をチェックすることで、その地の経済状況が判断できると豪語)ならではの言動ですが、ならば琉球・沖縄の古典でも「ネコ」が登場するかを考えたところ、偶然にも猫に言及したオモロを見つけました。
膨大な文献すべてをチェックした訳ではありませんが、ブログ主が見た限りでは琉球・沖縄の古典で猫が登場する覚えがなかったので、該当オモロの一節には衝撃をうけました。ただしこのオモロは “いわくつき案件” であり、鳥越憲三郎博士と外間守善先生と解釈が全く違います。今回は鳥越博士の解釈を紹介しますので、ネコ好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。
まずは原本(尚家本〔法政大学沖縄文化研究所刊行33頁〕)の書き写しをご参照ください。
おもそさうし巻3 きこゑ大きみかなしおもろ御さうし
大ぬしかてんとゝろかふし
一 きこゑ大きみきやなてゝ
おちやるみやふさとよま
ちへおるしよわ
又 くりもりきやなてゝ
又 よなははまよりやけはま
おるしよわ
又 うちすてるかきすてる
すりより
ちなみに鳥越先生による改行、および解釈は下記ご参照ください
【改行】大ぬしかてんとゝろかふし
一 きこゑ大きみきや
なてゝおちやる、みやふさ
とよまちへ、おるしよわ
又 くりもりきや
なてゝ
又 よなは、はま
よりやけ、はま
おるしよわ
又 うち、すてる
かき、すてる
すりより
【解釈】大君が天轟が節
一 聞得大君が
撫でて居ったる猫総
響もして下し御座し
又 国守が
撫でて
又 与那覇浜
寄揚浜
又 打ち捨てる
掻き捨てる
擦り寄り
オモロの大意は「国の守護者なる聞得大君がさすっておいでになる猫の毛、鳴かせて下へお下しになって、与那覇の海岸にお下しになって、うっちゃりなされているのに猫はすり寄って来て」です。
参考までに鳥越先生の解説によると、巻3は1から5までは国王慶賀のオモロ、6から10までは慶長の役の際に聞得大君が国王および将兵を励ましたオモロと記載されています。そんな文脈で、唐突にネコと戯れる聞得大君のオモロが掲載されますので、オモロ学者たちの思考が停止するのも当然かと思われます。実際にブログ主も脱力しましたから(笑)
ただし、おもろそうしは鳥越先生もご指摘の通り編集方針がずさんな部分がありますので、文脈無視の意味不明なオモロが掲載されていても不思議ではないと考えています。首里王府にとって聞得大君は現人神の設定ですが、そんな彼女がネコと戯れる唄(オモロ)には不思議なロマンを感じるブログ主であります。
最後にブログ主独断の解釈を紹介して今回の記事を終えます。
国の守護者なる聞得大君がさすっておいでになる猫の毛、
鳴かせた後に霊力をお授けになって、
与那覇の海岸で霊力をお授けになって
(その後)猫をうち捨てたにもかかわらず、猫は気にせずにすり寄って来て