楚洲事件 – 初報

今回は昭和50(1975)年7月24日付琉球新報夕刊3面に掲載された “楚洲事件” の初報を紹介します。事件の概要は同年2月14日に上原組の組員3人が嘉手納へ借金取り立てに出かけた際に、旭琉会の組員7人に拉致され、国頭村楚洲の山中で殺害された件で、沖縄ヤクザ史上に残る残虐事件として広く知られています。

比嘉清哲著『犯罪実話物語』によると、事件は上原組幹部の松茂良弘(通称モスラー)が事件翌日の2月15日に沖縄県警捜査2課へ借金取り立てに出かけた3人が行方不明であることと、乗用車が万座毛に投げ捨てられている件を通報したことから発覚します。事件発覚までの経緯は琉球新報の記事に詳しく記載されています。読者のみなさん、是非ご参照ください。

殺害されていた3人 / 旭琉会内部抗争

ことし2月中旬から行方不明になっていた旭琉会・上原一家の3人の暴力団は対立抗争を続けていた旭琉会主流派に殺害されて北部の山中に埋められていたことがわかった。この事件を調べていた県警本部捜査二課(西山正樹課長)は、これまでに別件で逮捕していた2人の自供から3人をピストルと短刀で惨殺、山中に埋めたことをつきとめ、24日午前5時から国頭村楚洲の山中で遺体発掘捜査を開始した。これまでの2人の自供によると主流は5~6人が犯行に加わっていたようで3人をピストルで撃ち、死体を埋めたが、うち1人が土の中からはい出て逃走しようとしていた。これを追いかけ短刀でさらに胸などを突き刺し、ピストルを数発射ってとどめを刺した上で埋め直すという、想像を絶する残酷な手口で殺害していた。

楚洲山中に埋める / 2人の自供で / 県警、遺体の発掘開始

殺害されて埋められていたのは上原一家の組員、仲宗根隆(21)、前川朝勝(22)、嘉陽宗和(21)の3人。仲宗根ら3人は、さる2月14日午後8時過ぎ、那覇市首里の上原一家アジトをライトバンで出かけ、そのまま行方不明になっていた。3人は嘉手納村に住むゴルフ場勤務のMさん(25)からト博の貸し金を取り立てに出かけ嘉手納村のMさん宅までは足取りはわかっているが、Aさんの家から後がプッツリとだえていた。

翌15日3人が乗っていたライトバンが恩納村の万座毛ガケ下につき落されているのが発見され捜査陣は初めて3人が行方不明になっていることを知った。しかし発見されたライトバンからは何の手がかりも得られず、捜査は足踏み状態が続いた。

殺害されたのか、どうか捜査当局が判断しかねているとき、4月ごろになって北谷村に住む会社員が妙な遺書を残して自殺していることがわかった。この遺書の中には「3人のことについては新城喜史(昨年10月24日、宜野湾市真栄原のユートピアで殺害された山原派の理事長)の関係者に聞けばすべてわかる」と書かれてあった。がぜん捜査陣は色めきたった。この会社員Uさん(42)は2月27日自宅で首つり自殺をとげていた。Uさんの妻などの話によると昨年7月ごろ嘉手納に住むMさんが夫を訪ねてきた。そして夫に「上原一家とバクチをやり多額の借金を背負わされた。家も土地もすべて奪われたがまだ数百万円の借金が残っている。なんとか助かる方法はないだろうか」と持ちかけてきたという。Uさんは酒を飲んでいた勢いも手伝って「山原派親分の新城喜史を知っている。彼に頼んでみよう」と約束した。Uさんが山原派幹部を通して新城に頼んだところ、日ごろから上原一家に対し反発していたこともあって新城のひと声でケリがついた。その後、Mさんに対する上原一家の借金取りは全くなくなっていた。

 – ところが上原一家の日島らが昨年10月24日、宜野湾市のクラブ「ユートピア」で新城を殺害したため、状況が一変した。この事件からしばらくして再び上原一家によるMさんに対する借金取り立てが始められた。

ことし2月になって3人が行方不明となる事件が発生、Uさんは事件のいきさつをすべて知っているため「今度は私が殺される番だ」と毎日おびえていたという。Uさんは自殺する前日、妻に「暴力団のウラのウラがよくわかった。わかればわかるほど暴力団が恐ろしくなってきた」などともらし、2月27日尊い生命を断った。

事件のいきさつをほぼつきとめた捜査二課はト博の疑いで暴力団幹部(40)ら3人を逮捕、調べていたものでうち2人が自供し、事件の全容が明らかになったもの。なお殺害の疑いで逮捕されているのは旭琉会主流派の暴力団員A(22)とB(26)の2人。(昭和50年7月24日付琉球新報夕刊3面)