今回は昭和45(1970)年12月21付琉球新報に掲載されたコザ暴動の “ドキュメント” 全文を紹介します。ドキュメント記事に関しては同日発行の沖縄タイムスにも掲載されていましたが、複数の史料を参照の上、琉球新報の記事がもっとも真実を伝えている内容と判断しました。
読者のみなさんに事件の全容を把握していただくために、あえて “無修正” で全文を掲載していますが、実は当初ブログ主は掲載するかどうか迷ってしまいました。理由は事件の内容が予想のはるか上をいく “惨状” を呈していたからです。気合を入れて記事全文をご参照ください。
ドキュメント
「いつかは騒動が – 」と心配されていたことが事実となった。コザ市内一帯がゆれ動いた。その六時間半におよぶドキュメントを掲載する。
1時15分 コザ市上地胡屋カルテックス前路上で事故発生、ジェームス・R・ハロルド(20) = 沖縄米陸軍キャンプ桑江の利用センター勤務が、道路横断中の翁長清一さん(39) = 具志川市安慶名298、軍雇用員 = を乗っていた乗用車ではね、東部、前頭部などに軽傷を負わせた。コザ署と米憲兵隊が調査、加害者を帰そうとする。ちょうどこのころは、事故現場近くの中之町の特飲街の閉店時間とかち合い、事故現場にヤジが集まり出す。
1時45分群衆1000人にふくれあがる。口々に米兵引き渡しを要求。「金城トヨさんの二の舞を踏むな」「米兵をしばり首にしろ」とば声をあびせる。
2時0分 米憲兵隊、これらの群集に連続威かく発砲。同時に群衆の中から20数人の男がドドッと米憲兵隊に突っこみ、なぐりかかる。加害者の車、MPカーを包囲。加害者を乗用車からひきずり出し、車の窓ガラスの破片で傷つけ、重傷を負わす。近くに置いてあったMPカー、米軍用小型トラック、米人乗用車をひっくり返し放火、炎上させた。
2時15分 応援にかけつけた米憲兵隊、コザ署員など約70人が、群衆を排除して重傷の米兵をキャンプ桑江の陸軍病院へ収容。武装米兵が主要道路に出動。
2時30分 事故処理のために群衆整理している時、外人運転の車が事故を起こした車に追突、この事故が群衆を刺激。群衆は狂ったように外人を車の中からひきずり降ろし、暴行を加え、同時に外人乗用車、MPカーに次つぎ放火、炎上させた。米人が必死に逃げる。群衆が追いかける。中之町交番、諸見交番へ投石、放火。交番員脱出。出動していた米憲兵、警官めがけてビンや石が投げられる。道路のあちこちで車が炎上。「暴動だ」「戦争だ」と叫ぶ群衆。無秩序なコザ市がゆれる。一方、コザ十字路近くでは怒り狂った群衆が道路わきに駐車中の乗用車や道路に放置された黄色ナンバーの外人車を次々10人がかりくらいで、道路中央に運び出し、ひっくり返し、放火、炎上させた。また通りかかった車両は町の中のいたるところで検閲され、外人が乗っているとわかると引きずりおろされ、暴行を加えられた上、車に放火される。外人の助けを叫ぶ声があっちこっちできこえる。
2時45分 近くのズケラン基地、嘉手納航空隊から続々、軍用トラックでカービン銃、ライフルで完全武装した米兵約200人が到着。群衆に催涙弾を投げ、鎮圧にかかった。と同時に胡屋十字路、中之町、園田につながる約1㌔の道路を完全武装した米兵約200人とコザ署、警本機動隊約100人が非常警戒にあたった。それを約3000人にふくれあがった群衆が包囲、にらみ合いが続く。中之町、園田、ゲート通り一帯は催涙ガスの煙とにおいが充満。町中の街灯が消され、ネオンの火が消え、コザは暗黒の町。いたるところで炎上した車の炎が赤々と夜をこがしている。暗やみのなかの群衆の怒号が無気味だ。
嘉手納ゲート通りへも飛び火。MPカー、米軍車両、米人乗用車が次々転覆され、放火、炎上させられている。嘉手納第2ゲートから、約70人の嘉手納基地突入。同ゲート横の「沖縄人軍バス発行事務所」ビルに放火、全焼。さらに約200㍍奥に侵入、ガード・ボックス前に、米人乗用車3台が集められ、放火、同ボックスもろとも全焼させた。さらに北側丘の上にある米人学校校舎3むねに放火全焼。さらに西側の基地内のホテル前に駐車中のMPカー、米人乗用車9台に放火、炎上させた。
3時0分 さらに深く基地内侵入図る。ライフル、ピストルで完全武装した米兵約150人と沖縄人ガード約70人が出動。暴動鎮圧用大型放水車3台が出動。群衆に放水。群衆、基地外に押し出される。6人検挙さる。嘉手納第2ゲート、武装米兵約150人、軍用犬を連れた米兵50人、沖縄人ガード約50人が三重四重に守りを固め非常警備にあたった。
4時0分 群衆は約1万人にふくれあがり、胡屋十字路、中之町、園田につながる約1㌔の26号線、ゲート通りなど市内のいたるところで外人車をねらいうちにし、放火が相次ぐ。まさに内乱状態。コザ、具志川、石川、普天間、中部各署、警本機動隊約300人がコザ署に集合。しかし待機するのがせいいっぱいで打つ手がない。
激高した群衆数10人は、中之町・パレスホテル内に駐車してあった米人車両2~3台のフロントガラスをメチャメチャに割った。1台を路上にひきずり出し横転させる。口々に「火をつけろ – これ以上アメリカーにバカにされるな」と叫び、車に火をつけた。暗黒化した街頭には時々、ドカァン、ドカァンと炎上した車の爆発音とともに火の粉が舞い上がり騒然としたコザの町にこだまする。その中を民間車両やタクシーが、燃えている車を避けるようにスピードをあげて突っ走った。ランパート高等弁務官は、コザ市一帯にコンディション・グリーンⅠ(外出禁止令)をラジオを通じて発令、全将兵に兵舎に待機を命じる。このとき、米軍ヘリコプターが出動、タイヤの焼けるにおいと、騒乱状態となったコザ市上空の旋回飛行を始めた。
4時30分 胡屋にあるコザ署前に待機していた約30人の機動隊がゲート通りに繰り出し、米軍第2ゲートへ通ずる道をしゃ断した。怒りに狂った群衆は機動隊にも投石を始めた。機動隊を包囲して「糸満のれき殺事件をくり返すな。お前たちは米軍の味方か」とバ声を浴びせる。包囲された機動隊は支援隊を要請しやっと群衆を解散させる。そのころ、第2ゲート通りの嘉手納空軍沖縄人雇用事務所が放火された。米憲兵隊の見守る中を米軍消防車が出動、放水、まもなく消し止める。
5時 非常招集した那覇、中、南部の警察官約300人が続々とコザ署前に到着。コザ署内は一段と活気づく。激高した群衆を解散させようとゲート通りに出動したが、群衆は歩道に立ち止まって焼き続けている外人車両を見守っている。そのころ、知念副主席や新垣警察本部長など警察首脳陣が到着した。
5時30分 約1000人の群衆は、警官が出はらっていない中之町、諸見両交番を襲撃、窓ガラスをたたきわって中に乱入した。「交番も燃やしてしまえ」とだれかが叫んだ。
6時 中之町ゲート通りの騒動はやっと静まってきたがコザ市入り口のライカム付近はいぜん500~600人に群衆が騒いている。機動隊約100人が駆けつけ解散させようとするが退かない。機動隊のあとから完全武装の憲兵隊がやってきて催涙ガスを5~6発発射した。
7時 騒ぎもようやくおさまり、街頭には激高した群衆は見えず、ヤジ馬がくすぶり続けている車の残ガイを見守っている。(昭和45年12月21日付琉球新報8面)
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