公同会運動の考察 その3

前回の記事で日清戦争の結果によって、開化党と頑固党の確執は頂点に達したと記述しました。理由は開化党の拠点の一つであった琉球新報社が、毎日のように日本軍の快進撃を報じたからです。当然頑固党派新聞報道を信用しません。それどころか新聞のことを紙ハブとあだ名をつけて忌み嫌うようになります。ちなみにその時の様子は下記の抜粋文をご参照ください。

電信は明治27年に至るまでなお敷設されなかったが、日清戦役中に着手して、戦争が終局を告げる頃ようやく開通した。その頃は平時でさえ郵船は月3~4回、ないし6~7回に過ぎなかったのに、多くの商船が御用船に引きあげられたので、1週1回、もしくは10日に1回ぐらいの郵船しかなかったのだから、戦報の待ち遠いこと気が気じゃない、それこそ親父の赤状以上で、船の煙が見えると通堂から三重城に至る海辺は人がいっぱいだった。船の方でも気をきかして檣上高日章旗を翻し、別に信号機をかかげて勝利を報じつつ入港するのが例となっていたが、それでも精しい戦報が知りたいので、我が琉球新報の門前など、立錐の余地もない位人が集まったのである。(中略)

戦況が進むに随い、毎便捷報ばかり来たのだから、2~3か月後からは、結局勝利に極まっているような気分になったが、一方頑固党の方では、それは皆新聞社がねつ造したように言いふらしたので、この方でも黙っているわけにもいかず、盛んに頑固党攻撃を始めたところ、彼らから新聞に対して紙ハブの別名をつけられたこともある。(沖縄県政五十年、太田朝敷著より通信及び運輸交通の発達より抜粋。旧漢字は一部ブログ主にて訂正)

現在残っている琉球新報の記事は1898年(明治31)以降のみで、当時の記事を参照することはできませんが、上記のエピソードからも察する通り、開化党と頑固党の対立は修復不能と思われるレベルまで深まります。日清戦争は1895年(明治28)4月17日の下関条約(日清講和条約)によって日本の勝利で政治決着し、当然新聞もそのニュースを流すのですが、頑固党の皆さんはなかなか清国の敗北を信じません。

まるで北朝鮮による日本人拉致を最後まで信じていなかった旧社会党の人たち並みの頑固さですが、そんな頑固党の人々がが否応でも清国の敗北を受け入れざるを得ない事態が起こります。その出来事とは1896年(明治29)の年明けに、脱清人26人が沖縄に帰ってきたことです。(続く)

脱清人

【参照】脱清人の貴重な画像。頑固党黒派の義村朝明の長男朝真がいます。


【関連項目】

公同会関連資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai

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