閑話 元海兵隊員の米軍属による女性死体遺棄事件について思うこと 2

今回の事件においてアメリカ軍の占領行政を経験した世代なら間違いなく1955年(昭和30)の由美子ちゃん事件を思い出します。この事件は当時6歳の少女を米軍人がレイプおよび殺害したおぞましい事件で、沖縄県民における米軍人・軍属のイメージを決定的に悪くしたことでも知られています。

1950年から由美子ちゃん事件が起こった1955年の間には

1951年9月8日 サンフランシスコで対日平和条約と日米安保条約調印。

1952年4月28日 対日平和条約発効、これにより沖縄の行政権は日本からアメリカへと変わる。

1954年1月7日 アイゼンハワー大統領、年頭一般教書で「沖縄を無期限に管理する」と言明。

1954年3月17日 対日平和条約が発効したことにより、米軍が接収していた土地を一括支払いの方法で買い取る方針を発表。軍用地処理の問題が勃発(軍用地を一括支払いで買い取る=永久所有を意味するため、ものすごい反対運動が起こった)。

1955年3月11日 宜野湾市伊佐浜で軍用地を強制接収。

1955年4月22日 伊江島で軍用地の強制接収。

1955年9月3日 由美子ちゃん事件が起こる。

など当時の沖縄の人の神経を逆撫でするような事件が次々と起こっています。発端はサンフランシスコ講和条約の結果沖縄が日本本土から正式に切り離されたことですが、由美子ちゃん事件においてアメリカ軍に対する当時の沖縄の人の感情は極度に悪化します。

とどめは1959年(昭和34)6月30日の石川市立宮森小学校へ米軍機が墜落して17人死亡、121人負傷の大惨事が発生したことです。これだけやらかしてくれるとさすがに「米軍出て行け!」と思わざるを得ません。これらの事件は民族の記憶として現代に於いても沖縄県民の行動様式に大きな影響を及ぼしているのです。

60年前の昔のことに囚われているのでは?との批判もあるでしょう。ただし残念ながら忘れたくても忘れられない記憶というのは個人にも民族にも存在するのです。「70年前のことだから原爆投下のことも、シベリア抑留のことも忘れよう」と主張すると当事者から猛反発を食らいます。沖縄県民にとって米軍人・軍属に対する感情は由美子ちゃん事件に代表される恐ろしいイメージがどうしても頭から離れないのです。

だから一刻も早く出ていってほしい、恐ろしくて近くには置きたくないという発想が根底にあるため、今回のような事件が発生すると条件反射的に「米軍基地の無条件かつ全面撤去」と叫ばざるを得ないのです。現実に撤去が実現されるのは2の次で条件反射的に行動してしまうことを理解して欲しいのです(続く)。