現時点(2016年11月12日)で確認できた公同会関連資料です。新資料を入手しだい更新します。(アイキャッチ画像は脱清人、左端が琉球人(田名真宜)です)。
規則
第一条 本会は公同会と称し、会所を首里に設置す。ただし各地の便宜により支部を設くることを得。
第二条 本会は沖縄県人民の共同一致を謀り、公利公益を振興するの手段方法を研究するを目的とす。
第九条 総会毎年二月、八月、之を開き、委員会は隔月之を開き、評議員会は会長必要と認むる場合に於いて之を開くものとす。
第十四条 本会一切の費用は、評議員に於いて之を定む。
斯くて公同会長、副会長、各一人、評議員五十名、調査委員十名、幹事三名を推薦し、全県下に遊説の手を拡げ、遂に二区五郡に七万三千三百余人の結束調印を終わり、各地方より九名の委員を選定し、総代として上京せしめ、請願書を当局に提出し、更に各大臣を訪問して、其趣旨のある所を口述せしめたりといふ。(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
11月15日追加 脱清人の挿話
当時の琉球教育(第三号)は記して曰く、「本県人にして廃藩以前より滞清したる者、又或は脱走したる者、都合二十六名、今一月七日(明治二十九年)入港の球陽丸より帰県したり。此一行は旧十一月七日、福州を発し、上海より東京丸に乗込み、十五日長崎に着し、鹿児島を経て当日着したる由なり。……彼等が帰県したるは、支那より引渡されるにもあらず、……已に戦争にも大敗を取りたるに依り、茲に見切をつけ、……帰りたる旨を陳述したる由、……」とあり、斯くの如く、戦勝の結果は、従来離反せし民心を統一し、全県一致、開明の新気運を醸成したるのみならず、戦後論功行賞の余栄に預かりし、尚寅、尚順は、父尚泰の勲功に依り、特に華族に列し、男爵を授けられるを以て、直に断髪して、旧衣冠を改めたりといふ。而して一般県民も、此前後より漸次断髪の風上下に行わるるに至れり。(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
11月15日追加 脱清人(だっしんにん)
琉球処分に反対し、琉球王国の維持・存続をかかげて清国に脱出、〈琉球救援〉を清国政府に嘆願した琉球藩民に対する呼称。琉球処分が政治的に日程に上った1870年代後半から、士族を中心に反対運動が活発化する。その具体的なあらわれば〈脱清〉と呼ばれる非合法的な行動であった。一種の政治的亡命であり、〈脱清亡命〉ともいう。それは一般に琉球処分以前と以後の二つの時期に大別される。前者は琉球処分という最終目標へと具体化しつつあった明治政府の諸政策を、清国政府に訴えることによって国際問題化させ、王国体制の維持、存続をめざすものであった。幸地朝常、林世功ら有力士族がこの時期の脱清人の代表的人物である。一方、琉球処分以後からほぼ日清戦争期までは、滅却された旧琉球王国の復活をめざし、清国政府へ様々の嘆願を続けた。富川盛奎・浦添朝忠・亀川盛棟・義村朝明・沢岻安本などが、この時期の代表的な脱清人である。両時期を通じて脱清人は、幸地、富川、義村のような上級士族から無役、下級士族、平民などを含む広範囲な階層にまたがっていた。脱清行動は1876年(明治9)の幸地・林らを以て事実上の起点とするが、琉球をめぐる国際的・国内的情勢が緊迫化するにつれて激増、とりわけ琉球処分以後増大する。
この行動は日清関係を悪化させ、同時に日本の国際的地位をもおびやかす危険な要素をはらんでいたので、明治政府も対応に苦慮した。政府は1885年以降、山形有朋の名によって、旧藩律の罰則規定を復活し、取り締まりの強化と合わせて在京の尚泰を一時帰郷させ士族懐柔につとめたが、効果を上げることができなかった。1885年に帰国した神山傭忠の証言によれば、当時清国内における脱清人の動静は福州琉球館〈柔遠駅〉に浦添朝忠以下30余人、北京に富川盛奎以下若干名、天津に幸地朝常以下若干名の滞留が報告されている。脱清人の広範な配置状況を示す一例である。このように明治政府への抵抗の姿勢は、日清戦争の終結まで続いた。〈比屋根照夫〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
脱清人の画像(那覇百年の歩みより)
尚寅男、授爵の挿話(明治29年6月30日)
当時の琉球教育(第八号)は亦記して曰く、「尚寅君の授爵に就ては、一週日以前に於て男爵親授式を行はせらるるに付、参内致すべき旨、宮内省より通達ありたるに依り、君は奈良原男を訪問し、右の赴きを語りたれば、男爵には直ちに宮内大臣を訪ひ、礼服の事を語られたる処、旧礼服の侭苦しからずとの事にて、奈良原知事も安心せれたる由なるが、尚泰候には天恩の優渥(ゆうあく)なるを畏れ奉り、断然散髪し、燕尾服を着け、参内すべしと命ぜられたれは、知事も宮内省も意外に出でたる由。授爵式の当日は、新調の燕尾服にシルクハットの装束にて、八時過より宮内省に出頭し、式部官より式の指導を受け、軈て時刻になれば、天皇陛下出御、天顔麗しく、爵を親授あらせられたりと承はる……」とあり。
尚同誌に、「侯爵尚泰、及び令嗣尚典の両公は、東京に於て過日来断髪せられたりといふ。想うに、模範を旧藩士等に示されたるならん、候父子の英断茲に出づ、其沖縄教育社会に影響する、蓋し大なり。……」と以て当時の情勢を推知するべきなり。要するに廃藩置県を去ること十数年の間、文化の停滞を来し、沖縄は恰も我邦の維新以来、明治十年の西南役の終結に至るまで、不平士族の新政に嫌焉たらざる者多く、各地に暴動を起して、政府に反抗せし者と同じく、其情況は多少異なれりと雖も、亦其揆を一にするやの観ありき。(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
11月15日訂正 請願(明治30年日時は不明)
某等沖縄県那覇首里両区国頭、中頭、島尻、宮古、八重山各郡人民を代表し、謹みて内閣総理大臣伯爵松方正義閣下に請願す。
我が沖縄は舜天王以来尚泰に至るまで三十六代世々帝国に恭順を盡(つく)せり、之を以て大政御維新の後、明治五年辱くも聖詔を賜はり、琉球藩王に封ぜらる。その詔に曰く咨(これ)爾尚泰其れ藩屏の任を重んじ衆庶の上に立ち切に朕が意を体し、永く皇室を輔たれと、実に聖旨の存ずるところ柄として日月の如し。尋いで明治八年内務大丞松田道之を遣はされ、清国冊封廃止、進貢禁止等の命令あり。政府意を用いらるるの周到なりしこと実に感激に堪えざる所なり。然るに当時沖縄の状態は、漫に清国の尨大なるに眩惑し、頑固因循進みては聖旨のあるところ體する能わず。退きては政府の懇論に遵う能わず、徒に日清両属の嘆願のみ是事とし、更に形勢の何物たるを辯せず、明治十一年在京の使者私かに外国公使に救援を求むることあるや、政府再び松田内務大丞を遣わし竟に使命を恭せず、難差置との事由を以て断然たる処分を決行せらるるに至れり。然りと雖も、熱々当時の状態を回想すれば、不恭の罪責は尚泰にあらず、専ら有司の因循と人民の頑冥とにあうは、全く事実の証する所なり。翻って沖縄今日の清勢を視るに、人心或いは萎靡し或いは放逸に陥り、百事礙滞して国家の進運に伴う能わず。甚だしきは尚清国を慕ふものありて切に大小の党派を結び同党伐異して一致協合の実を欺き、その結果人民をして、翕然嚮ふる所を知らしむる能わず、反て皇化邊陬に遍かざるとの感あるを免れず、故に人民をして能く嚮ふ所を知らしめ、将来の進歩を図るは沖縄に適切なる特別制度を設け、尚家をして之が長司たらしめ、以て、其の任を全ふせしめらるるの一事に在り、是某等各地方民を代表して閣下に請願する所以なり。顧るに沖縄は起国、沿革其趣を異にし、風俗習慣亦其状を同ふせず、殊更に尚家の沖縄人民に於けるや、家人父子の如く、数百年の久しき相率いて帝国に臣事し、其の感化は盤根固帯して抜くべからざるものあり。故に特別の制度を設け、尚家をして其の長司たらしむるを得ば、四十餘万の人民は永く皇恩の優湟なるに感泣し奮って公に奉ずるの精神を発揮し、且つ人心倶に一致協合して各帰着する所を知り、百般の事物一大進歩を来たらし、異日風濤の脅あるも克く帝国南門の鎖鑰たる重任を果すべし。
希くは閣下深く沖縄既往の事歴と現今の状態とを了察せられ、聖詔の優旨に基き尚家をして特典を全ふせしめて幸福を享受せしめられんことを某等誠惶々々慎みて請願す。
明治三十年
那覇首里両区国頭中頭島尻宮古八重山五郡人民七万三千三百二十二人総代、那覇区字久米 国場掌政(以下略)(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
趣意書
沖縄県民の永久の幸福を保存するは一般人民をして速やかに日本国民の性格を具備せしむるの一事あるのみ、言を換えて之を言えば、四十餘萬の人民をして、可成的速に内地に同化せしむるにある。若し夫れ自然の趨勢に一任して、以て一二代の後を待たんか、未だ同化するに至らずして社会の下層に沈淪して復救ふべからざるに至るは蓋し必至の勢いなり。識者沖縄の政策を論ずるもの鮮なからず、然れども未だ其の要を得たりの説を聞かず、此の其眼識の足らざるが故に非ず、畢竟其沿革風俗、人情及び人民の特質を審にせず、単に頑迷度し難いもとの速断するのみ、沖縄人民にして到底内地に同化する能わざるものとすれば、則ち止むのみ、苟も日本国民の精神を注入するの素地ありとすれば、此問題豈等閑に看過すべきものならんや、沖縄人民が同化するの迅速は、依って以て幸不幸の岐(わか)るる所にして、社会全般の利害得失を挙げて其内に包括せらるるものなり。今夫れ既に内地に同化したるものとすれば、政治上より言うも、社会上より云うも總て日本国民の享有すべき権利幸福は儘く之を享有するを得べきも、今日の如く容易に同化せざるに於いては、制度を以て如何なる利益を興ふるも唯夫れ形式の点に止まり内地と沖縄とは常に精神相疎隔し、社交相融和せず、遂に優勝劣敗の数理に馳られて、以て土着人民は沖縄の名と共に相終始するに至るは論を待たざるなり、故に今日沖縄人民のために慮る所のものは、知識の啓発よりも寧ろ国民精神の修養にあり、制度の改革よりも寧ろ内地的社交の建設にあり。且それ内地にありては廃藩置県によりて以て天下の民心を統一したり。然れども沖縄に於いては全く之に反し、廃藩置県により却って人心の分離を示せり。而して人心の分離は大いに国民的精神の修養を妨げ、社交の改造を妨げ、将来帝国の体面を傷くることなきを保せず。之を要するに沖縄今日の時弊を洗滌し、数百年来の習慣を矯正し、人民をして日本国民の本文を自覚せしめ、以て皇土と共に永く光栄を担はしめんとするに到底之を現今の制度に望むべからず。須く其人情風俗を参酌して一種の特別制度を設置し精神の統帥者とり社交の中心点たる尚泰を其長司に任ぜられ、先ず人心を尚家に統一せしめ、尚家をして相率いて以て皇化に浴せしむるにあり。今販請願の本旨とする所之に外ならず、然して其所謂特別制度に関する要点を揚ぐれば左の如し。
一、沖縄に長司を置き尚家より親任さるること。
一、長司は政府の監督を受け沖縄諸般の行政事務を總理すること。
一、長司は法律命令の範囲に於いてその管内に行政命令を発することを伝へること。
一、沖縄に監視官を常置して中央政府より派遣せらるること。
一、長司の下に事務官等を置き法令の定むる所の資格に遵い長司の奏薦に依り選任せられ、亦長司自ら任免すること。
一、議会を置き各地方より議員を選挙し法令の範囲内に於いて公共諸般のことを議せしむること。
一、国庫に納むる租税は特に法律の定むる所の税率によること。
一、沖縄に要する一切の費用は特に法律の定むる所の税率以内に於て議会の決議を以て賊課徴収すること。
斯くの如きは大いに社会の活気を発揮し百般の事業自ら振興し、今日の如く干興督励するに及ばずして万事自ら精励し、一旦緩急あるも奮起して以て義勇奉公の大任を全うするに至るは敢て疑を容れざる所なり。然るに本請願に対し封建の制を復活し内地人を排斥するものとなす如きは誣妄も亦甚だしと云うべし。(以下略)(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
11月15日追加 沖縄県政五十年より抜粋
電信は明治27年に至るまで尚ほ敷設されなかつたが、日清戦役中に着手して、戦争が終局を告ぐる頃漸く開通した。その頃は平時でさへ郵船は月三四乃至六七回に過ぎなかつたのに、多くの商船が御用船に引きあげられたので、一週一回若しくは十日に一回位ひの郵船しかなかつたのだから、戦報の待ち遠いこと気が気じゃない、それこそ親爺の赤状以上で、船の烟が見へると通堂から三重城に至る海邊は人が一杯だつた。船の方でも氣をきかして檣上高く日章旗を翻へし、別に信號旗をかかげて勝利を報じつつ入港するのが例となつてゐたが、それでも精しい戦報が知りたいので、我が琉球新報社の門前など、立錐の余地もない位ひ人が集まったのである。その時海軍大尉が一人那覇に滞在してゐたが、慥か黄海の捷報来た時であつたらう。大尉殿餘程嬉しかつたと見へ。戦報の手紙を鷲掴みにして、然も片足は草履、片足は古下駄をはいて走つて来たので、後に氣がついて互いに吹き出したことがある。
戦況が進むに随ひ毎便捷報ばかり来たのだから、二三ヶ月後からは、結局勝利に極つてるような氣分になつたが、一方頑固黨の方では、それは皆新聞社が捏造したやうに言ひふらしたので、この方でも黙つているわけにもいかず、盛んに頑固黨攻撃を始めたところ、彼等から新聞に對して紙ハブの別名をつけられたこともある。戦況稍、酣ならんとする頃、誰いふとなく支那の南洋艦隊が襲撃するとの噂が流布したので、口では強いことばかりいつてゐても、懸廳の役人を始め、諸學校、寄留商人團、及び開化黨の面々は極度の恐怖に襲はれ、家族を普天間邊に避難させたものもあつた。殊に紙ハブの製造者である吾々同人は、何といつても懀惡の的となつてゐるので、若し黄い軍艦が襲来した時には、眞先に首が飛ぶのは吾々に極つてゐるから、この風説の爲内々非常の脅威を感じたのである。(第六、通信及び運輸交通の發展より)
日清戦争は日本の大勝利で局を結んだ、この勝利の報を最も大なる喜びを以て迎へたのは、恐らく本懸の開化黨だらう。殊に紙ハブの製造元たる我が琉球新報社員の喜びは、今から思ひ出しても飛立つほどだ。そこで藩政以来あらゆる革新の唯一の障碍物が、ここに根こそぎ取除かれたわけだから、人心も直ちに轉換して各方面とも順調に進展するものと期待してゐたが、この期待は餘り速断過ぎたのであつた。懸政はそろそろ改革の方針を決定して、明治二十九年から愈々實行に着手したが、多数の頑固は尚ほ迷夢を醒まさうともしない。首里、那覇に特別區別が施行され、郡部に間切島吏員規定が改正され、間切島規定が施行されても、多年浸馴した食客根性は容易にぬけず、明治三十一二年の頃までは政治上にも、社會上にも自主的精神はその萌芽さへ見出されなかつたのである。明治二十九年の私のノートに、
定見なく常識なきものは、定見を與へよ、何ぞ其敵となり味方となるを問んや、敵とならば然る後之を討て、味方とならば相進め、云々。
と書いたものがある。これは上に○印を附けてあることころから見ると、新聞紙上に發表したようであるが、その動機は少数の開化黨が、日清戦争の有利の終局に勢ひを得て、頑固黨に對する過激な攻撃態度を緩和する必要に促されたものであつたやうに思ふ。
それから少し隔つたペーヂに左の一節がある「沖縄の眞の利害は、果して日本全國と一致するを得ざるか」と前置きして、今や余はこの問題を討究せざるべからざる不幸に遭遇せり、内には到底一致せずと誤認する頑固黨あり、外には沖縄人の思想は、悉く全國の利害に衝突するものとの疑念を抱く所の不親切なる他府懸人あり、彼を破り此を解くにあらざれば、到底沖縄をして文明の域に進ましむること能はざるべし、頑固の誤認を破り他府懸人の疑念を解くには、以上の問題を精細に解決せざるべからざるを信ずればなり、云々。
この問題を精細に解決したか否かは記憶してゐないが、兎に角日清戦役の直後、即ち懸政第二期の初めに於ける懸下の情勢は、これによつても稍推測せらるるであらう。
明治二十九年か三十年の頃、開化党の長老株の間に起こったのは、尚泰候を本県知事にして貰ひたいという問題で、これには頑固党の多数が賛同してので、公同会という団体を組織し、遂には政府に請願するという運動まで移った。留学帰りの護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和の諸君と共に私も仲間入りしたのだが、当時鹿児島新聞の通信記者であった佐々木笑受郎君などは、冷やかし半分の態度でこれを評し、故に復藩論と名づけて役割までも製造して新聞に発表してことがある。立憲政治も既に十年近く経て来た時代であるから、こんな請願が採用されない位ひはわかり切った話しで、吾々は人心を転換させる適宜の一策として援助したわけだが、この問題については留学生の連中からも手厳しく攻撃された。
この運動は当然の結果として、有耶無耶の裡に消滅して仕舞ったが、当時新知識の所有者と許された吾々までがこの運動に参加したのは、却って県人に対する信用を傷つける外、何等の効果も持ち来さなかったのである。適宜の一策などと理屈はつけても、少なくとも思慮の足りなかった責は免がれない。(第八・沖縄懸と沖縄懸人、四・懸政革新と懸民の覚醒運動より)
当時の一新聞「国会」の記事
昨秋以来日清交戦の結果、帝国は連戦連勝の末、遂に清国をして、朝鮮王国独立を承認せしめ尚台湾全島を我に致さしめたるに就いては流石蒙昧なる琉球士族等も余程啓発するところありしと見え、旧士族中の稍々開化党を以て称せられたるもの七八名は、去六月来上京して旧君家たる侯爵尚泰家に迫り、何事か請願する所ありしとて種々奔走し居れる由を野村内務大臣は聞き伝え、余程、右の有志を悉く官邸に招きて親しく彼らの請願を聴取し…旧藩主たりし尚家をして世襲の行政長官即ち沖縄県知事たるの御沙汰を蒙りたいしといふにありしを以て、野村大臣は容を正し、痛く其の不心得なるを諭したる上諄々として我国体の制質より今日の制度を説き及ぼし、彼らに向かって将来は断然斯の如き迷心を捨て一意専心帝室より栄誉ある侯爵を賜はり、御寵遇の浅からざる尚家の財政を整理し、且つ諸事を漸次改善して旧君家の隆昌を謀りなば沖縄県知事たるは言ふに及ばず、進んでは内閣大臣にも栄任せらるる時機もあるべし。故に卿等速に県地に帰りて沖縄県下に於ける後進子弟の教育を進め殖産興業を発達せしめることに注意せば実に尚家の爲なるは勿論沖縄県一般の幸福なるべし。若し尚此の説諭に遵わず、頑然斯の如き迷心を固持せば已むを得ず国事犯を以て処分せられるの外なかるべしとの旨を懇々と説諭されし処、彼の有志輩は何れも大いに悟る所ありし様子にて、深く不心得を悔みて官邸を引取りたり。(謝花昇伝、大里康永著より抜粋、沖縄現代氏、真境名安興著にも同様の記述あり)
公同会事件の影響
然るに政府当局者が梱●に依りて断然其非を悟りし委員等は爾来全県一致して現制度の下に満足し文明の化に浴せんとするに至りき。而して此時代を画して各方面に渉り著しく進歩を早めたるは事実の証明する所なり。史家は亦論じて曰く、19世紀の半ば以後東洋の形勢の変化は東洋に在る各国相互の関係に起因するよりも寧ろ欧米各国の形勢に左右せられしこと多きに居れりと、試みに例を挙げて之を証せんが、明治4年日清両国が条約を締結して徳川時代を通じて途絶えたる国交を回復せしが如き明治12年琉球の廃藩を断行して清国の羈絆を脱せしめたるが如き征韓論勃興の当時より朝鮮に我勢力を扶植することを勉め其宗主権に就きて屢々清国と争い終に日清戦争を起すに至れるが如き、満蒙地方に我勢力を扶植して朝鮮を庇護し支那を控制するが如き事は日支両国の関係に依ると雖も其勢いを醸成せし所の真の原因は、世界の大勢の圧迫に在りとし東西両洋の関係は年を逐ふて益々緊密を加へ今や東洋の形勢は世界の大勢の重要なる一部分となるに到れるを以て世界の大勢に通ずることなくして東洋の形勢を論ずべからずとなせり。(太平洋問題研究の機関を我文科大学に設くるの必要を論ず史料編纂官中村勝麻呂述)顧ふに琉球の廃藩は、旧藩吏の揣摩せしが如く単に清国絶貢の一にてはあらざりしなるべし。此事件は琉球の廃藩を促せし一因にはなれども王政維新の国民的大統一は琉球の如き辺土と雖も特別の制度を許さざる時勢を醸成せしにあらざるなきか、明治7年の台湾征討が琉球藩の難民を殺害せしことより起因し其平定の後、政府は藩王に朝覲して天皇を伺はるべきことを勧めたるも病を以て辞したりき。然れば台湾征討の意義が琉球の統治上に何等の影響なしを得ざりしか又廃藩置県の処分案に「入琉の時に際し藩王より尊奉書を呈する共決して取納す可からず命令の通り行うべきこと」とありて仮令当時清国との絶貢を尊奉するも琉球を独り封建制度の下に放置するを許されざりしにあらずや。又明治12年の一月廃藩の機運将に熟せんとせしとき英公使パークスの質問に逢ひし副島外務卿は之に答えて曰く清国と貢通を絶つも一般人民は何等の苦情もなし、唯累代家禄を受領せし藩吏の内には自己の使臣となる利益等の為に或いはえを憂ふるものあるべし。又廃藩処分の藩吏は自己の立場より之を好まざるべしと雖も一般人民は苛税を免れ却て幸福なる境遇に置かるるなるべし。縦令一時は旧慣を慕ふ者あるも追々は却って喜ぶ所となるべしと●●せり。是れ旧藩制度が已に過去に葬らるるべき運命を有し維新の●●の副はざる封建の遺訓なるを以ての故にあらざるか。要するに公同会の起因は旧藩吏の多数が廃藩置県の真の義を解せざりしことか、或時代間に於ける懐柔政策が彼等として一の疑心を抱懐せしめし所以にあらざりし乎。(沖縄現代史、眞境名安興著より抜粋)
山ノ城一校長の詐欺事件
ところで、この公同会のいわば前景ともなり、また日清戦争前夜の沖縄の旧支配層、とりわけ頑固党の心理風土の象徴になった事件に、山ノ城一校長の詐欺事件というものがある。
日清戦争が勃発すると、頑固党はこれを好機と判断し、毎月一日と十五日には大勢つれだって社寺に清国の戦勝祈願をささげ、大いに気勢をあげた。一方、開化党は開化党で、前年創刊されたばかりの琉球新報がつぎつぎに流す日本の戦勝に、歓声をあげて頑固党と対抗した。
しかし、そのうち中央の新聞で、清国南洋艦隊が九州ならびに沖縄を攻撃する準備を進めていると報じた時は、県民のほどんどが動揺し、なかでも寄留商人のごときは同盟議会なるものを組織して、いざの場合には婦女子を中頭に退避させ、男はまっさきに中国系の久米村人を血祭りにしてから防衛にあたろうと、分遣隊や県庁吏員と一団になって騒ぎまわる始末だった。中学校や師範学校の生徒も学校当局も命令で義勇団を組織し、いわゆる「黄色軍艦」の来攻に備えた。
しかし、別に沖縄にはこれという異変もなく、やがて戦争は日本の勝利に終わった。最初、頑固党はかたくなに日本の戦勝を信じなかったが、やがて新領地の台湾へ往来する日本の艦船が沖縄へもしきりに寄港するのをみて、それを信じないわけにはいかなかった。そこへ、戦争直後、護得久朝惟が琉球新報の特派記者として中国に渡り、つぶさに戦跡をみて帰った。それに戦争の終結した翌1896年(明治29)1月7日には、那覇入港の球陽丸で中国服をまとった26人の沖縄人が帰ってきた。廃藩前後、王府の命令や自分の意志で琉球救援の陳情に渡清した人々であった。
こうして、ようやく頑固党が琉球王国再興の夢からさめかけていたおりもおり、1896年(明治29)6月30日、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順が男爵を授爵された。この恩典に報いるために、二人は自ら進んで断髪を断行し、頭上から黄金の簪を取り去った。こうなれば、琉球の王子が名実ともに日本の華族になったわけで、今さら琉球王国の再興もない。これを見て、中城御殿に長くとどまっていた首里王府の残党のいつしか四散し、一般の人々もまた両男爵にならった断髪するものが続出した。こうした戦後の社会を背景に起こったのが、山ノ城一校長の詐欺事件であった。山ノ城一というのは那覇の小学校長で、鹿児島県出身の男であった。彼は頑固党の夢の消える間際の中国に寄せる余光のような痛切な期待をうまくとらえて、自分は李鴻章の密使だと言葉巧みに持ち掛け、頑固党の有力者らから(義村朝明)2千余円の金をだまし取った上、姿をくらましてしまった。
校長という自らの地位をかえりみぬ破廉恥な犯罪行為で、当時の外来教師の劣悪さを物語る事件であった。しかし一方、だまされる方もだまされる方で、当時の頑固党の連中が、どれほど無知で他力本願だったかということを、はからずもこの事件はさらけだす結果となった。(近代沖縄のあゆみ、新里金福・大城立裕著より抜粋)
11月18日追加 山城事件(やまのじょうじけん)
日清戦争を背景に頑固党を巻き込んだ詐欺事件。日清戦争が日本に有利に展開するなかで、あくまでも琉球の日本への統合に反対する頑固党は焦慮の色を濃くしていた。そこへ<李鴻章の密使>と称する山城一(やまのじょうはじめ)が現れ、頑固党の総帥、義村朝明に取り入り、火にあぶると文字が浮き出るように薬品で白布に書いたものを密書とみせかけ、運動資金・旅費を名目に莫大な金を詐取した。のちに山城は逮捕、処罰された。山城は鹿児島出身で、当時沖縄における鹿児島閥の力を背景に、小学校校長(中学校教師との説もある)にまでなった。しかし、乱脈な私生活と学校経営でその職を追われ、鹿児島へ帰るが、ふたたび沖縄へ舞い戻り、事件を起こした。当時の沖縄社会を反映する象徴的事件である。これを素材に小説「九年母」が書かれている。(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
11月15日追加 公同会運動(こうどうかいうんどう)
政治結社〈公同会〉を母体をして旧支配階級が特権的地位の確保に努めた運動。公同会は尚寅(しょういん)ほか7人の旧支配階級に属する有志たちによって、日清戦争が日本の勝利に帰した翌年の1896年(明治29)に結成された。会則に〈沖縄人民の共同一致を謀り、公利公益を振興する手段・方法を研究〉することを掲げた。その具体案は尚家を沖縄の世襲知事とする特別制度の実施を政府に要求するというものであった。この会には廃藩置県以後、反目・対立関係にあった開化、頑固両党の有力者も加盟、さらに太田朝敷、高嶺朝教などの新しいエリート層も加わり、いわば新旧支配層が大同団結した政治結社であった。首里・那覇の士族、各地方の旧役人層を中心に全県下を遊説する形で運動が展開され、2区5郡にわたり7万3000名の署名を集めた。翌1897年(明治30)秋には、首里・那覇2人、5郡1人、合計9名の請願団を東京に送った。
彼らの主張の骨子は、開化・頑固の両党派の対立に見られるような置県以後の民心の分裂を克服、同化=皇化を促進し、国民精神の発揚をはかるためには、かつての沖縄における精神の統率者であり、社会生活上の中心点であった尚家を沖縄の世襲知事とする特別制度を実施する以外方法はない、というものであった。この運動に対し、中央の諸新聞は〈時代錯誤の復藩論〉と嘲笑・酷評した。在京の沖縄学生もこれに反対し、さらに県内頑固党の一部からの反対や、謝花昇らの反対運動があり、運動は県内外で孤立していった。一方、明治政府はこの請願を相手にせず、このまま運動を続行すれば〈国事犯〉として処分すると威嚇、こうした情勢の推移のなかで、日清戦争後噴出した〈旧支配勢力最後のあがき〉公同会運動は自然瓦解した。公同会運動は置県以来一貫して新支配機構に反対していた旧支配者階級が、日清戦争以後の新しい事態のあかで、自己の特権的地位を確保しようとする焦慮からでた復藩的な特別自治体制要求の運動であったといえる。〈比屋根照夫〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
11月18日追加 公同会と謝花
謝花はその当時県の技師として勧業方面の事業に精励していたことは前述のとおりであるが、彼は公同会に対してはもちろん反対の立場にあったものである。それは無論奈良原の弾圧が恐ろしかったからでもなく、属僚的な卑屈さから来たものでもない。彼は公同会運動の誤謬を当時にあってなお完全に把握し、自ら誤たざるを得た少数者の一人である。すなわち彼は公同会運動が始まるや直ちに東風平の村頭である伊舎良平吉に対して、村民が絶対に公同会に入るべからざることを説き、彼をして村内をかけめぐらしめ、もって公同会への加入を防止せしめたものである。(謝花昇伝、大里康永著より抜粋)
11月18日追加 八十五 日清戦争と沖縄
明治二十七年(一八九五)七月、日清戦争が勃発した。日本軍は連戦連勝、翌二十八年四月には講和条約の締結を見、日本は二億両(三億五千万円)の賠償金と台湾の割譲を得た。この戦争によって、日本は朝鮮から清国の勢力を駆逐し、同時に清国への経済的浸透を進める便宜を獲得した。この戦争の沖縄の社会に与えた影響はまことに大きかった。
廃藩置県後、旧士族の間に沖縄の在り方について意見が二つにわかれ、党派的に相対立していた。廃藩置県を避けられない時運と見て新県政に順応する態勢を採る開化党と、旧王国も復活を企図し、清国の援助によってこれを達成しようとする頑固党であった。頑固党の方は清国専属を主張する黒党と、日清両属を望む白党の二派に別れたが、一しょになって中国側に琉球救援の嘆願をつづけていた。頑固党は尚家の家扶家徒や有禄者の大部分と地方の奉公人階層がこれに属し、尚家の援助を得て隠然たる一勢力をなしていた。
日清戦争に際し頑固党は清国の勝利を期待し、毎日朔日と十五日には大挙して社寺に戦勝祈願をささげ威勢を示し、一方開化党は前年創刊も琉球新報の伝える日本の捷報に気勢を挙げて相対立していた。しかし中央の新聞に、清国南洋艦隊が沖縄および九州の攻撃を企画しているとの記事が載ったときには、県下大いに動揺、寄留商人は同盟議会を組織し、分遣隊や県官を加えて一団となって、万一の時にはまず婦女子を中頭に避難させ、場合によっては真先に久米村人を片付けてから防衛に立ち向う計画を立て、米穀その他の物資まで備え、中学師範も生徒もまた義勇団をつくって「黄色軍艦」の来襲に備えたほどであった。
ところが沖縄には何事もなく戦争は日本の大勝利に終わった。最初のうち虚報と笑っていた頑固党も、新領地台湾への往来の軍艦軍船の頻々たる寄航に、とうとうこれを確認せざるを得なかった。
戦争直後、護得久朝惟が琉球新報記者の名で渡清し、戦跡を視て帰った。更に二十九年(一八九六)の一月七日、那覇入港も球陽丸で二十六名も中国服を着た沖縄人が帰って来た。彼らは廃藩以前、進貢禁止も命令を受けた頃から中国に滞在していた者や、その後脱走渡清した者で、多年福建、奉天、北京も間を往来して中国要人や官衙を歴訪し、琉球救援の嘆願運動をつづけていた人々であった。冨盛朝直、浦添朝忠の両按司、後に首里区長になった知花朝章もその中にいた。
これで、清国にはもはや琉球救援の意図も全く無く、またその力もないことが決定的となり、頑固党の夢は完全に敗れ去り、県下の人心も初めて統一を見た感じであった。
折も折、この年の六月三十日、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順が父尚泰の功によって男爵を授けられた。尚寅・尚順はこの恩典に奉謝するため断髪して頭上から黄金の簪を取り去った。こうして琉球の王子は完全に日本の華族となった(ついでに尚泰が侯爵となったのは明治十八年、今帰仁、伊江が男爵となったのは二十三年であった)。こうして中城御殿に残存していた首里王府の残骸も、いつの間にか消えてなくなった。
維新後間もなく日本々土においては一般に断髪したが、沖縄では置県後十数年を過ぎて、なお昔のままに黄金・銀・真鍮と身分別の簪をさしていた。師範学校生と島尻の高等小学生が断髪したのが明治二十一年で、それから学生生徒の断髪がだんだんと行われてきたが、都会地である那覇の小学生ははるかに遅れて明治二十八年にようやく断髪した。小学生の断髪は大体が教師の勧誘、むしろ強制によるもので、一般社会特に士族の家庭ではまだまだこれに対して反撥的態度を持していた。両男爵のこのたびの断髪があってから一般にも倣うものが多くなった。
このことは当時の人心の動向を示すものであった。(沖縄の歴史、比嘉朝潮著より)
11月18日追加 八十六 公同会事件
頑固党の王国復興の夢は日清戦争によって破れた。が、このころの沖縄の社会は教育以外の面では旧時代とそう変りなかった。大名、士、百姓の身分制度も、ただ華、士族、平民と名が変わっただけで、既に習俗化していた言葉づかいや服装はなかなか変わらずほとんど昔のままであった。ただ昔の王府の諸座諸蔵の役人は悉く首里・那覇の士であったのに、置県後は県庁をはじめ各役所の役人は、みないわゆる内地人で、いかにも沖縄は日本々土の人々に治められている「大和世」という感じであった。
日清戦争が終わって県内の人心も一応の安定を見た明治二十九年、尚寅外七名の発起で公同会という政治結社ができた。「本会は沖縄県人民の共同一致を謀り、公利公益を振興する手段方法を研究する」というのであったが、その手段方法というのは、尚家を世襲の沖縄県知事とする特別制度を布くにありとして、開化党の有力者に頑固党の人々も加わって、会長・副会長各一人、評議員五十名、調査委員十名、幹事三名の役員を置き、家禄持と首里那覇の士族、地方の旧奉公人階層を中心に全県下を遊説し、二区五郡に亘り、七万三千人の結束調印を持、三十年秋には那覇・首里各二人、五郡は各一人、都合九人の代表者が上京して、政府に請願することになった。
請願の趣旨は「沖縄はすみやかに日本に同化すべきであるが、県内の人心が統一を欠き、国家の進運に伴うことができない。それで沖縄人民と家人父子の関係にある尚家を世襲の長司とする特別制度を施行された」というにあって、その制度の概略は、⑴沖縄の長司を尚家より親任せられること。⑵長司は政府の監督を受け、沖縄諸般の行政事務を総理すること。⑶沖縄に中央政府派遣の監視官を常置すること。⑷長司の下に事務官を置き、法令の定むる資格に遵い長司の奏薦に依り選任せられ、又長司自ら任免すること、⑸議会を置き各地方より議員を選挙し、法令の範囲において公共諸般のことを議すること」等で、薩摩附庸時代の首里王府に一般の知藩事時代の制度を加味したもので、趣意書の中に「かくの如きは大いに社会の活気を発揮し、百般の事業自ら振興し、今日のごとく干興督励するに及ばずして万事自ら精励し、一旦緩急あるも奮起して以て義勇奉公の大任を全うするに至るは敢えて疑いを容れざる所なり」といっている。しかしまた「本請願に対し封建の制を復活し、内地人を排斥するものとなるが如きは誣妄も甚しというべし」と弁解しているのはおかしいことである。
こうして九人の代表者は、七万二千八百余人連署の請願書を政府に提出し、各大臣に事情を説明して巡った。この運動に対して中央の各新聞は時代錯誤の復藩論と笑い、県内においては、新教育を受けた筈の太田朝敷ら琉球新報を中心とする人々も率先参加したが、地方出身の謝花昇らを始め有識者中に反対するものも多く、また在京の留学生の多数はこれに賛同せず、県当局もまた弾圧の途に出た。
野村内務大臣は上京の総代一行を招き、その趣旨を聞き「卿等かくの如き迷心を棄て、郷里に帰り、尚家の財政を整理し、且つ諸事を漸次改善して旧主家の隆盛を護り、且つ後進子弟の教育を進め、殖産興業を進展せしむることにつとめることが、尚家の為になるはもちろん、沖縄県一般の幸福となるべし」と懇々説諭し、「もし頑然かくの如き迷心を固持せば、やむを得ず国事犯を以て処分する外なかるべし」とおどかしたので、一行は引き下がった。
これまで旧慣保存の県治方針の下に、昔の特権を維持していた旧治者階級の人々が、明治の革新、廃藩置県の意義も理解せず、日清戦争後の対琉球政策の変更にも気が付かず、政府の従前の態度に甘えて、隴を得て蜀を望むような時代錯誤的な復藩運動を行ったので、はねつけられたのは当然であるが、新教育を受け時勢にも通じていた太田朝敷の如き人がこの運動に加わったのは、置県以来外来者が実業界においても官界に於ても、勢に乗じて県出身者を圧しようとする形勢がつくられつつあることに対し、旧支配階級の勢力を盛りかえそうという考えが暗々のうちにあったかに見える。とにかくこの形を変えた復藩運動は殆ど効果を残さず消え去った。(沖縄の歴史、比嘉朝潮著より)
<公同会運動に関わった人物>
<開化党>
太田朝敷(おおた・ちょうふ)
1865年(慶應元)首里に生まれる(首里士族)。1882年(明治15)第一回県費留学生として上京、学習院や慶應義塾に学ぶ。帰郷して1893年(明治26)に琉球新報社の創設に参加、記者生活を経て同社社長に就任、後年まで同職にあった。公同会運動にも加わったことがあるが、他は生涯ジャーナリストに徹した。晩年は首里市長も務め、『沖縄県政五十年』を残す。1938年(昭和13)没。(沖縄の百年第一巻―人物編、新里金福・大城立裕著より抜粋)
護得久朝惟(ごえく・ちょうい)
1868年首里に生まれる(首里士族)。長じて尚泰の婿に迎えられ、琉球処分後は尚家の家老格として尚家のために力を尽くし、公同会運動にも参加した。丸一商会、広運社などの社長を歴任、1916年(大正5)年農工銀行頭取となる。補欠選挙で高嶺朝教の後を継いで国会に送られ、第二回の衆議院選挙にも当選した。1923年(大正12)没。(沖縄の百年第一巻―人物編、新里金福・大城立裕著より抜粋)
尚寅(しょう・いん)
1866年生~1905年没。公同会運動の推進者の一人。最後の琉球王である尚泰の次男。宜野湾王子朝広、童名は思樽金(うみたるがね)。母は王妃章氏佐敷按司加那志思戸金。1875年に宜野湾間切を賜り、宜野湾御殿を創立。1979年14歳の時に廃藩置県にあい、父王に従って上京。1896年から97年にかけて旧支配層の内部から新しい情勢への対応として起こった、旧王家を世襲の県令とする特別制度確立運動を展開しようとして、太田朝敷、高嶺朝教らとともに沖縄最初の政治結社〈公同会〉をおこした8人の発起人の一人である。当時31歳。(中略)〈真栄平房敬〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
尚順(しょう・じゅん)
1873年生~1945年没。琉球最後の国王尚泰の4男。松山の名島を領して松山王子と称し、また松山御殿とも呼ばれた。号は鷺泉(ろせん)。1885年10月に初めて上京し、九段富士見町の尚侯爵家に住んだ。翌年元服し、1887年次男の尚寅とともに帰郷した。1893年、21歳のとき護得久朝惟や東京留学帰りの高嶺朝教、太田朝敷らを傘下に収め、首里閥の代弁機関として『琉球新報』を創刊した。1896年に華族に列し爵位を授けられた。(中略)〈田名真之〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
<頑固党>
亀川盛武(かめかわ・せいぶ) 頑固党黒派
生没年未詳。三司官、頑固党指導者。唐名は毛允良。首里に生まれる。宜湾朝保・川平朝範らとともに、王府の要職をつとめ、1872年(明治5)に老齢の理由を以て辞任。野にあって、おりから表面化しつつあった琉球処分問題にたいし、新日的傾向があった政敵宜湾を激しく糾弾、失脚に追い込み、親清的傾向の言論を唱え、琉球王国体制護持の立場を鮮明にする。また、清国と琉球との<信義>を強調し、明治政府の琉球統合政策にたいし、<己が功利のため我弱きを慢り>と批判、反日的士族集団<頑固党>の頭領・中心人物として明治政府の琉球処分に抵抗し、処分官松田道之をしばしば難渋させた。亀川の反日的言論は、当時の士族層に圧倒的影響力をもち、琉球処分後の県政ボイコット、サボタージュと発展、また国王尚泰出京の命に対しても、<沸騰激昂>し、出京阻止をはかったのも亀川配下の士族集団であった。1884年、嫡孫盛棟の脱清の件で、沖縄県警察本署警部猪鹿倉兼文の取調べを受け、<改心=転向>の表明をしているが、その真偽のほどは不明である。<比屋根照夫>(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
知花朝章(ちばな・ちょうしょう) 頑固党白派
1847年生~1929年没。首里当蔵に士族朝功の長男として生まれる。旧藩時代、書院小姓、下庫理当職を経て、1873年(明治6)砂糖奉行、1875年(明治8)系図座中取となり、同年8月王弟今帰仁王子に従い、琉球処分の政策として勤学生派遣を要請されたときに選ばれて上京したが、77年(明治10)に父の病気を理由に帰郷。同年田地奉行、1879年(明治12)には吟味役という高位の職に昇進したが、同年の廃藩置県により辞任。廃藩置県後は尚家を中心とする沖縄広運(株)の監督に就任。日清戦争のときには小舟で危険を冒して渡清、清国敗北の情報をいち早くもとらして、頑固党の夢を潰えさせた。1896年(明治29)沖縄広運(株)社長に就任、翌年尚家の家扶となる。(中略)<大城康平>(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
*琉球救国運動(後多田敦著)によると渡清は1891年(明治24)になっている。
<脱清人>
浦添朝忠(うらそえ・ちょうちゅう) 頑固党白派
生没年未詳。按司奉行。唐名は向有徳。幸地朝常とともに清国在留“脱清人”を指導した人物。1883年(明治16)富盛朝直、識名朝勝、沢岻安本の3親方を含む43人の大量脱清を領導。同年12月、幸地らと〈琉球復藩〉の請願を清国当局に提出する。1885年(明治18)に帰国した神山庸忠の証言によれば、同年7月現在30余名の脱清同士とともに福建省琉球館〈柔遠駅〉に在留していると伝えられるが、1887年(明治20)に再び請願を行ったという事実以外、その後の足取りは不明。〈比屋根照夫〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
*1896年(明治29)1月7日に球陽丸にて帰沖を確認。その後は自宅にて旧士族の子弟相手に漢学の講談を行って余生を過ごしたことが確認。
幸地朝忠(こうち・ちょうじょう)
生没年未詳、清国在留脱清人の指導的人物の一人、位は親方、唐名は向徳公。1876年(明治9)、浦添朝昭の命をうけ、琉球救国の国事に従事するため林世光、蔡大鼎らをしたがえ運天港から脱清。以後、福建・天津・北京と中国各地を奔走。ついに清国で客死。とくに福建省琉球館〈柔遠駅〉を根城に清国政府の動向を把握、在留脱清人たちにさまざまな戦略を指示、琉球との連絡につとめた。幸地らの動きは明治政府も重視しており、治安当局はその行方の探索に力を注いでいる。また自由民権運動派の新聞にも幸地らの動向が報じられるなど、その動静はおりからの日清関係に微妙な影響を与えた。1884年8月には長男朝端も父の後を追い脱清、父子そろって脱清の事例となった。1887年、幸地らが清国政府に提出した〈嘆願書〉には、”琉球処分による〈琉球国の惨遭国亡ひ家破る〉の状況が述べられ、〈琉球の家々戸々惨然として禍に遇う〉さまが哀切の文章でつづられている。清国服に身をかため、頭髪も清国風に結い上げ、中国大陸を転々とした脱清亡命のリーダー幸地の以後の足取りは不明。〈比屋根照夫〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
*1891年(明治24)清国にて死去を確認。長男朝端は帰沖後に丸一店(丸一商店、尚家出資の商社)の社長に就任していたことが確認。
富川盛奎(とみかわ・せいけい) 頑固党白派
1832年~1890年没。首里王府最後の三司官。歌人。(中略)1875年(明治8)宜湾朝保のあとを襲って三司官に就任した。ときあたかも明治政府が打ち出す処分案に国論が沸騰し、混乱の度を強めていたなかである。しかし明治政府は、既定の方針通り、1879年(明治12)廃藩置県を断行し、反日強硬派を逮捕投獄するなどして強硬した。盛奎ら漸進派はこの年の9月から沖縄県庁の顧問となり、新政府に協力する姿勢を取ったが、1882年(明治15)、中国へ亡命〈脱清人〉。先に亡命して清朝に王国の救済を陳情していた幸地親方朝常らと合流して、復藩活動に奔走したが実現せず、かの地で没した。〈池宮正治〉(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
義村朝明(よしむら・ちょうめい) 頑固党黒派
1830年生~1898年没。政治家。頑固党(黒派)の領袖として知られる。唐名は向志礼、童名は思鍋金。向文輝(奥武朝昇)の五男として首里に生まれ、17歳のとき又従兄にあたる義村按司家・尚謙の跡目をついで東風平間切の総地頭となる。王府の役職は寺社奉行・西平等総横目。同総与頭などを歴任するが、総地頭としては疲弊した東風平間切の立て直しに成果をあげ、王府から褒章をうけた。再建のため6年にわたり間切に詰めたとき、謝花昇が<御殿奉公>として仕えたとも伝えられる。琉球処分に際して反日・旧守派の中心人物として頑強に日本への帰属を拒み、亀川盛武が転向したあとは旧守派・頑固党を代表した。日清戦争の時には清国勝利の御嶽祈願をつづけ、山ノ城事件で大金を詐取されるほど反日運動に徹した。清国が敗れた直後の1896年(明治29)、みずから脱清人となって福州にわたり、98年同地で客死。漢学の素養が深い教養人だが、性格は奔放不羈、終生志をまげぬ一代の硬骨漢として近代史に名を留める傑物である。遺骨は1933年(昭和8)首里に移葬された。<新川明>(沖縄大百科事典、沖縄タイムス社より抜粋)
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