私の戦後史第5編 / 沖縄タイムス社編 / 宮城嗣吉(3)

辻で遊び過ぎ、県下に「スーヤー三郎」で知られた私を、東京から帰ったばかりの仲宗根源和氏が訪ねてこられたのは昭和5年。用件は本土中央で船越義珍先生が「唐手術」として普及、発展させている武術を柔道、剣道同様に「空手道」として発展、普及を推進して行こうという。

当時日本人の頭の中には “唐” “支那” と言えば虫けら同様でしかなく、中国人は「チャンコロ」と呼び、尊敬されるお国柄ではなかった。そういうこともあって仲宗根氏は、沖縄の空手にも “道” を取り入れ、本土中央の武道仲間入りをしようという考え。「協力を頼む」と頭を下げられ、私は県下の屋部憲道、花城長茂、喜屋武朝徳(チャンミイグヮー)、知花朝信、城間真繁の各先生方を仲宗根氏とともに訪れ、案内した。また仲宗根氏は「君が一番尊敬している先生はだれか」とも聞かれた。当時その道では「神話的な達人」本部サールーと答えた。

しばらくして各先生方の意見もまとまり、演武会を那覇昭和会館、中頭地方事務所、糸満小学校の3カ所で開いた。旭橋近くの昭和会館での演武会には、井野次郎県知事も招待。本部サールー、喜屋武ミイグヮー、屋部憲道、知花朝信、城間真繁、宮城長順の五氏と若手は私が出演した。中頭、糸満では、本部サールー、喜屋武ミイグヮー、知花朝信の三先生に私が出演。沖縄では初の試みで盛大な演武会だった。仲宗根源和氏が企画し、その後昭和9年私が佐世保海軍航空隊入隊中に「君の協力で、沖縄空手道も結成の運びをみた」と礼状と記念写真が届けられてきた。

話が横道にそれるが、本部サールーは、実戦家で学は無かったが「論より証拠」という自らの哲学に徹した武人で関西方面の空手の普及をしていた。一方、船越義珍先生は、東京の帝大、慶応大、早稲田大で唐手術として教えていた。よく両先生の実力はと聞かれるが、両氏ともそれぞれの道を歩まれ、空手道の開拓には、偉大な足跡を残した。本部先生は、他流試合の逸話も豊富で、その名は全国に知られていた。当時発刊されていた雑誌「キング」はベストセラー。その雑誌にも毎月本部サールーの武勇伝は大々的に掲載され、東京はじめ全国各地から教えを請う人びとも少なくなかった。

神戸、門司、福岡、鹿児島、台湾から野師が大挙沖縄へ進出してきたのは、昭和6年から8年にかけてであった。このような組織は、沖縄にはない。われわれも当初は面食らった。仕事は、波上から上之蔵、山形屋前と目抜き通りを占拠し、たたき売り、屋台を出した。

ある日その野師仲間が波上通りの仲間のたまり場でけんか、弟分が兄貴分をノミで刺し殺した。けんかの発端は、兄貴分が弟分の女を横取りしたのが原因。

事件を当時の沖縄日報が大々的に報道した。すると野師が集団で日報社に押しかけ「記事は誤報だ。訂正記事を出せ」と脅し、また慰謝料100円も要求した。新聞記者の給与が20円前後、2~30人で発行している新聞社にとって100円の慰謝料は大金である。日報社はその対応に騒然となった。当時の日報社長が比嘉盛昌氏。学者で物静かな文化人だった。野師の脅しにあうのも初体験。結局話し合いがつき決着した。

潟原では高安高俊氏が社長、又吉裕三郎氏が編集局長で “厚生新聞” を発行していた。日報事件後4~5日たって厚生新聞も野師仲間の殺人事件を報道した。厚生新聞社にも野師が集団で押しかけ、日報社同様の要求を出し脅した。厚生新聞社創立で私も高安社長に協力し同社の理事になっていた。

豪傑で知られていた高安社長も日報社の恐かつ事件を知らされおじ気ついていた。そこで私が呼び出され、相談を受けた。話をきくとその日の午後8時までに野師の要求を準備しろということだった。「相手に乗り込まれるより、こちらから押しかけては」と私は提案した。すると高安社長は「相手は殺人者もおり、短銃、刀も持っている。それはできない」との返事。編集人も全員そろったが時間は経過する。善後策は見い出せない。あまりのふがいなさに私は「1人で出向く」と立ち上がると「1人では危い」と又吉編集局長がついてきた。私は使いなれた木刀を持ち出し、野師のたまり(真教寺前)へ向かう途中又吉局長と2人で、相手の出方をあれこれ想定、話し合った。又吉局長はまたもやおじ気出し「人数を集めて出なおそう」といい出した。

こうなると〔足手〕まといにはなる。1人がよいと判断した私は又吉局長を真教寺の門前に待たせ、単独で乗り込んだ。なかには20人ほどたむろしている。見渡すとそのなかに、丸山号社長の尾花忠治氏やら顔見知りが3~4人いる。「ヌウガサイ、ウンジュナーン、グールー、ヤミセーンナー」と声をかけると尾花氏らは「若者がしでかした厚生新聞社長脅しを聞いて駆けつけてきた。高安社長と対決になると大変なことになる。その善後策を話し合っている最中だ」という。「こうなったらけんかで決着をつけた方が早い」と告げると、私を知らない若者たちが「この野郎なにぬかす」と立ち上がり、身がまえた。タンカを知らない私が「シークヮイミ、外にでろ」というと尾花氏らが「お前らだまれ」と若者たちを制止した。それでその場での対決はなく私は引き揚げた。しばらくして野師から新聞社へ連絡があり、三杉亭で手打ち式があり厚生新聞恐喝事件は決着を見た。(323~326㌻より抜粋)